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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

品川硝子製造所跡 東海寺大山墓地 東京都品川区北品川

前回のつづき。 

第一京浜から山手通りを西に向かい、現在の東海寺参道を左に見つつ東海道線京浜東北線のガードをくぐったところに、東海寺大山墓地への入口がある。 

 

入口脇には品川硝子製作所跡の史跡。

 

大きな「史跡」の標柱と解説が刻まれた石碑があった。

 

碑の後ろにはガラスの原料のひとつ、珪石の塊。

 

品川区の説明板。

品川区指定史跡
官営品川硝子製造所跡
所在:品川区北品川4-11-5 第一三共株式会社前
指定:昭和53年11月22日(第8号)
日本における近代ガラス工業発展のもとになったのは、明治6年(1873)に東海寺境内に創設された興業社である。
興業社は、明治9年(1876)に工部省に買収されて官営品川硝子製造所となり全国のガラス工業の発展に貢献した。明治18年(1885)には西村勝三らに払い下げられて民間経営となったが、経営不振のため、明治25年(1892)に解散した。
昭和36年(1961)に官営時代の建物は取り片づけられたが、煉瓦造りの工場の一部は明治初期の貴重な建築物として、愛知県犬山市明治村に移築され保存されている。
平成27年8月31日

明治村は7,8年前に行ったが品川硝子製造所の建物は記憶にない。再訪しないと。

工部省品川硝子製造所(登録有形文化財)|エリア別建造物|文化財|園内の楽しみ方|博物館明治村

 

線路と塀の間の細い道を墓地へと上っていく。

 

左の塀には解体工事のお知らせ板。発注者はJR東海だが、第一三共の事務所と倉庫が4棟・最大地上5階があったようだ。来年(2017年)9月に完了予定。

 

「計画」のお知らせもあった。地上5階・地下4階の変電所が新設される。リニアが関係するのだろうか。完成時期は10年後の平成38年11月末となっている。

 

細道の突き当たりに東海寺の「大山」墓地があった。中央の石柱には「史跡 沢庵墓」とある。

 

その石柱の後ろから振り返ったところ。御殿山から南へ延びる台地の南端にあたる。その縁を目黒川が回りこんで、北品川・南品川の境を通って東京湾に注いでいる。

 

江戸期には東海寺の境内が目黒川の先まで広がっていた。

 

 三代将軍家光が沢庵和尚を招いて開山した名刹だったが、明治になって墓地や境内だったところに、ズドンと鉄道が通された。

品川歴史博物館特別展「品川産業事始」図録から。

 

現在の大山墓地は狭間に残った細い三角地帯。

 

工事中敷地の他の2辺は線路で仕切られている。東側の東海道線

 

北西側は山手線・横須賀線・新幹線。赤いラインは成田エクスプレスの屋根。

 

その中に、国指定史跡の沢庵和尚の墓があった。

国指定史跡 沢庵墓(たくあんのはか)
指定年月日:大正15年10月20日
指定面積:127.5㎡
所在地:品川区北品川4-11-8 東海寺大山墓地内
沢庵(1573~1645)は、江戸時代初期に活躍した禅僧で、名は宗彭(そうほう)、沢庵は道号。但馬国出石(いずいし:現、兵庫県豊岡市)に生まれ、幼少のころ出家して禅を学び、各地を修行して信望を集め、慶長14年(1609)大徳寺の153世住持となった。
寛永6年(1629)紫衣事件で流罪となり、出羽国上山(現、山形県上山市)藩主土岐頼行に御預けとなる。三年後許され、その後は三代将軍徳川家光に重用される。寛永16年(1639)家光によって創建された品川・東海寺の開山に迎えられ、晩年を送った。正保2年(1645)12月没、73歳。
沢庵は禅僧として大成しただけでなく、兵法、儒学に通じ、書画、詩歌にもすぐれ、茶道に造詣が深かった。
平成22年3月15日 品川区教育委員会

 

沢庵和尚については、品川区の公式サイトの人物伝で2回に分けて詳しく解説されていた。

品川人物伝 第14回|品川区

品川人物伝 第15回|品川区

 

柵の内側。自然石の簡素はつくりは上記によれば次のような遺戒があったから。 

亡骸(なきがら)はただ後ろの山に埋めるだけにして、読経も法事もし てはならない。塔や位牌も不要であり、自分の年譜行状などの記録を作らないように。

 

墓地の西端。鉄道敷設で移された墓石だろうか。

 

ぎりぎりの線路際に渋川春海の墓があった。

品川区指定史跡 渋川春海
所在:北品川4-11 東海寺大山墓地
指定:昭和53年11月22日(第6号)
渋川春海は、寛永16年(1639)に京都で生れ、14歳で父の跡をついで幕府の碁所となり、安井算哲(二代)と称した。囲碁の研鑽の一方で、天文・数学・暦学を学び暦学者となった。
その頃、日本では中国の宣明暦を使っていたが、二日の誤差があったので、春海はみずから計算して新しい暦を作った。これが貞享元年(1648)に官暦となり翌年から用いられ、貞享暦として後の太陰暦の基本となったのである。
貞享暦は日本人の手で作られた初めての和暦であり、春海はこの功によって、幕府最初の天文方に任ぜられ、本所(墨田区)に、宅地を拝領した。春海は、屋敷内に司天台(天文台)を設けて天体の観測にあたった。これが江戸で最初の天文台である。
春海は正徳5年(1715)10月6日に77歳で亡くなり、この地に葬られた。
平成19年3月1日 品川区教育委員会

 

品川区のサイトにも人物伝がある。 

品川人物伝 第26回|品川区

 

天地明察」のモデルのお方。 

天地明察 [DVD]

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簡素な墓石だった。

 

そこから振り返ったところ。なぜか空いている敷地も多かった。

 

その先には、”鉄道の父”の井上勝の墓があった。

 

こちらの墓石もわりと簡素。

 

だが隣に立派な標柱があった。

初代鉄道頭 井上 勝 1843(天宝4)年~1910(明治43)年
”鉄道の父”と称される井上勝は、萩藩士の三男として生れた。15才から長崎、江戸で学び、1863(文久3)年 井上馨伊藤博文らとともにイギリスに密航し、鉄道と鉱山技術を学ぶ。日本の鉄道建設に最初から関わり、1871(明治4)年には初代鉄道頭となり、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道を完成させた。その後、鉄道局長、鉄道庁長官を歴任して、東海道線をはじめとする主要路線の建設に努めるなど、生涯を鉄道に捧げた。外国から導入した鉄道を、日本の鉄道として発展させた功績は多大である。生前、自らの墓地は東海道本線と山手線(現在は新幹線も並走)に挟まれたこの地を選んだのは、死後も鉄道を見守っていたいという意向からであったと伝えられている。

 

品川区の公式サイトの人物伝シリーズの初回に登場している。

品川人物伝 第1回|品川区

 

そこは墓地の北端部。

 

すぐ東は東海道線京浜東北線で、まさに線路に挟まれた場所。このような形状になってからこの地を選んで墓としている。鉄道愛が伝わってくる。

 

山手線の向こう側に品川白煉瓦の工場が建ったのは明治20年。

 

こちらの広い一画は賀茂真淵の墓。敷地に鳥居が立っていた。

 

国指定史跡で大きな標柱がある。

 

自然石を積み上げたような墓だった。

賀茂真淵 - Wikipediaによれば、賀茂真淵(1697〜1769)は江戸時代中期の国学者歌人で、荷田春満本居宣長平田篤胤とともに「国学の四大人(しうし)」の一人。

荷田春満を師とし、『万葉集』などの古典研究を通じて古代日本人の精神を研究し、和歌における古風の尊重、万葉主義を主張して和歌の革新に貢献した。また、人為的な君臣の関係を重視する朱子学の道徳を否定し、日本の古典にみられ、古代日本人の精神性の純粋な表れとされる、作為のない自然の心情・態度こそ人間本来のあるべき姿であるとして、古道説を確立した。

 

品川区のサイトにも人物伝がある。

品川人物伝 第19回|品川区

 

生地の浜松に記念館がある。

賀茂真淵について|賀茂真淵記念館【浜松生まれの国学者、賀茂真淵】

 

墓地から少し下って元の入口へ戻る。

 

塀から激しくはみ出す古木があった。

 

もとの入口に戻り案内板を見て、西村勝三氏の墓に参っていなかったことに気づいた。近いうちに再訪したい。

 

 山手通りを西へ向かうと近代的な春雨寺。

 

その先で山手線・横須賀線・新幹線のガード(目黒道架道橋)をくぐる。

 

その先は目黒川にかかる居木橋。

 

橋から下流方向。左にくぐってきたガード。

 

目黒川の上流方向はもう大崎。

 

春は桜がきれいです。

大崎の桜(2015/3/31)東京都品川区 - 墳丘からの眺め

五反田・大崎の桜 - 墳丘からの眺め