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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

鵜の木一丁目横穴墓 河原坂 東京都大田区鵜の木

前回のつづき。

東急多摩川線多摩川駅から2駅目が鵜の木駅

駅から南西側には多摩川に向かって平地がある。地名は鎌倉期からの古いもので、字のとおり鵜が多く住み着いていたことが由来のようだ。鵜の木 - Wikipedia

 

北東側には多摩川浅間神社から続く細長い台地がある。東急多摩川線と並行する多摩堤通りを越えると道が登りになる。

 

台地を切り通すような坂は「河原坂」

 

標柱があった。

河原坂 かわらざか

現在の、鵜の木2、3丁目付近は、昔多摩川の河川敷であったので、河原の地名がある。坂名の由来は、河原に出る坂道であることによる。今は「切通」になってゆるやかであるが、以前は道幅も狭く急な坂で、河原の畑を往来する荷車などは難儀をしたという。

 

駅の方向を振り返ったところ。この位置あたりが「峠」で再び下りになる。

 

そこを左へ、「埋蔵文化財鵜の木一丁目横穴墓群6号墓」への案内があった。

 

回り込んでいくと台地の上の公園に出た。鵜の木松山公園。

 

パノラマで。

 

北側斜面では公園の整備工事中。 

 

目指す横穴部は、その現場に面した台地北東側の斜面にあった。

 

詳細な説明板。

解説の上段部分。

鵜の木一丁目横穴墓群について

多摩川流域の横穴墓は、古墳時代(6世紀末)から奈良時代(8世紀前半)にかけて台地斜面に横穴を掘って造られた地域の有力者のお墓です。大田区周辺の台地斜面では、鵜の木大地をはじめとして、いままでにおよぞ260基の横穴墓が発見されています。

鵜の木一丁目横穴墓群は、「区立鵜の木松山公園」の東斜面標高約12mの地点に、7世紀後半から8世紀前半にかけて構築されました。昭和61年(1986)の公園造成の際に2基が、平成17~19年(2005~2007)の公園整備で4号~7号墓が発掘調査されています。

なかでも6号墓は、大田区周辺に見られる特徴的な切石羨門構造をもつ貴重な横穴墓であることから、発掘当時の姿で保存しています。

 

切り通し状につくられた墓道を進むと、アクリル板越しに内部も見られるようになっていた。 

 

近づくと灯りがついた。

説明板の右側部分。

6号横穴墓について

6号墓は、墓道と羨門および墓室からなり、全長11.3mと長大です。

墓道は切り通し状で、被葬者を墓室へ運び、墓前祭を行う場所で5.9mあります。

泥岩製切石の羨門は、高さ1m、幅0.7mあり、3段積の切石で閉じられていました。

墓室は徳利を半分に割った形で、全長5.4mです。被葬者は墓室奥に、礫敷きの棺台に3体埋葬されていました。3体は20歳前後2体と30歳以上1体です。うち1体は、20歳前後の女性と判明しています。

3体の被葬者が追葬されていることから、6号墓は有力者の家族墓と考えられます。

6号墓は、その形態と付近の横穴墓の年代から、奈良時代前後(いまから1300年前頃)に造られたと考えられます。

平成19年3月 大田区

 

 実測図の部分。

 

墓道脇にかつて入口(羨門)を閉ざしていた切石が積まれていた。。

 

この斜面には合計7つの横穴墓が見つかったが6号墓だけが発掘当時の姿で保存されている。

 

7号墓があった辺り。

 

5号墓があった(ある?)辺り。

 

1、2、3号墓は民家の裏になってしまっていた。

 

台地上の公園から北東側には大きなマンションが建設中だった。

 

こちらのflatsさんのブログで、江戸期から手つかずで残った奇跡の自然林「天明さん森」が直近までここにあったことを知った。

「奇跡の森」を伐採 不動産会社は企業の社会的責任を果たしているか - マンション・チラシの定点観測

 

グーグルアースでは現時点でまだ森になっている(右上)

横穴墓と相対するように広がっていた。

 

近づくと建物の巨大さがわかる。

 

周囲の家並み越しに。側面の幅もある。森の跡が目いっぱいマンションとなった。

 

行きに上った河原坂から帰途に。

 

途中で左に古そうな枝道があったので行ってみた。

 

するとこちらにも河原坂の標柱があった。来た方向を振り返って。

 

さらに進んで振り返って。

 

台地に上がる道があった。

 

中央が階段になっている。

 

数軒の住宅を抜けるとすぐに下り坂になった。坂の上に立派な松。

 

石垣と蔵があって、いい雰囲気。

 

坂下まで行って折り返した。

 

さきほどの中央に石段のある坂道を坂上から。

 

おしゃべりしながら降りる二人。