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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

特別展「中島飛行機の傑作戦闘機たち」 所沢航空発祥記念館@埼玉県所沢市並木

2016年9月4日で終了した企画展。

所沢航空発祥記念館の入口にあった案内幕。

 

常設展スペースの一部が特別展コーナーとなっていた。

 

中島飛行機の創業者に関する解説。

上記によれば、中島飛行機を一代で築き上げ「飛行機王」と呼ばれた中島知久平は明治17年(1884)に群馬県尾島町の農家に長男として生まれ、海軍機関学校を経て海軍大学の選科生となった。明治45年(1912)には米国のカーチス飛行機工場で飛行機製作を学び万国飛行免状も取得、33歳で海軍を退官して郷里の尾島町に「飛行機研究所」を大正6年(1917)に開業した。中島飛行機が前身の富士重工業は今でもこの年を創業年としている。

3年後には中島五型練習機を所沢で飛行させ、陸軍から100機を受注した。

その後、日本の軍需工場として発展し、終戦までの28年間で3万機弱の飛行機を製造。第二次大戦中は機体は28%のトップシェア(2位は三菱重工)、発動機は一位の三菱重工に次ぐ31.3%のシェアで両社でしのぎを削っていた。

 

ジブリ映画「風立ちぬ」のモデル、堀越二郎三菱重工業で海軍機の設計主務者だったが、陸軍機では中島飛行機小山悌が設計主務者を務めていた。

零戦以外にも多くの名機があった。以下一応零式艦上戦闘機 - Wikipediaより。

当時の日本の軍用機は、採用年次の皇紀下2桁を名称に冠する規定になっていた。零戦の「零式」との名称は、制式採用された1940年(昭和15年)は皇紀2600年にあたり、その下2桁が「00」であるためである。

 

一式戦闘機隼に搭載されたハ115Ⅱ発動機。

 

中島飛行機が設計し、陸軍の「隼」に搭載されたが、海軍では「栄」の名で三菱重工零戦にも搭載されたとのこと。

 

一式陸上攻撃機に搭載されていた三菱重工製の火星エンジン。

 

日野オートプラザで見たエンジンたちを思い出した。

 

こちらは中島飛行機株式会社の未記入の図面用紙。

 

一式隼戦闘機の「トリセツ」

 

隼の機体三面図(複写)

 

同じく隼のコックピットパネル。

 

会場には九七式戦闘機の実物大レプリカがあった。

 

真横から。

 

翼の先は薄く1cmもないようだった。

 

小さなコックピット。

 

後ろから。

 

昭和10年末に陸軍が中島・三菱・川崎の3社へ競争試作が指示され、昭和12年に中島飛行機が採用となり、計3、386機以上が生産された。

 

このレプリカはテレビドラマに出ている。

 

上から。右奥はコスプレ撮影用パネル。

 

記念館は九一式戦闘機の実物胴体を所蔵しているがそちらは隣の常設展示コーナーにあった。

つづく。