前々回のつづき。
慶應義塾大学アート・センター主催によるガイドツアー「三田山上で出会う近代建築と彫刻」 は11時に始まった。参加者は20数名でガイドの方の説明もよく届く、気持ちのよいツアーだった。
集合場所の南別館を出て桜田通りの対岸の”三田山”を望む。
正面が正門で、右が2011年竣工の南校舎(日建設計)、左の丘の上が明治8年(1875年)竣工の演説館。
ガイドの方によれば、演説館の前の敷地が工事で更地になっているので、今だけ見ることが出来る眺めでしょう、とのこと。
南校舎のトンネル階段を上がって最初に向かったのは重要文化財の演説館。
小高くなった場所にあるのは、かつて島原藩の敷地だったときに藩が造成した”稲荷山”だから。
もともと演説館は旧図書館と塾監局との間に建てられたが、関東大震災で被災した塾監局の再建に伴って1924年にこの場所に移築された。三田山は戦時中に空襲で甚大な被害を受けたが演説館は破損を免れている。
演説館は震災も戦災もくぐり抜けた、強運の貴重な建物だった。
柵が開けられて建物正面へ。
なまこ壁の壁面には上下に開閉する洋風のガラス窓がつく。玄関の屋根は和風の切妻造で瓦が乗る。
屋根下の欄間には斜め交差に板を組み合わせ、扉の上にはガラスを嵌めたアーチを施す。
斜め交差は天井まで続いていた。
横から見たところ。
建物前にあった現地説明板。
重要文化財 三田演説館の由来
慶應義塾の三田演説館は、福澤諭吉先生によって建設されたわが国最初の演説会堂である。開館は明治8年(1875)5月1日、はじめはいまの塾監局の北端のあたりにあったが、大正13年(1924)に現在のところに移築された。
構えは木造かわらぶき、なまこ壁で、日本独特の手法が用いられているけれども、本来アメリカから取り寄せた諸種の図面をもとにして造られたものであった、明治初期の洋風建築のきわめて珍しい遺構とされている。規模は床面積191㎡余、一部が2階造りになっていて、延面積は280㎡余になる。
福澤先生は晩年、この演説館について、「其規模こそ小なれ、日本開闢以来最第一着の建築、国民の記憶に存すべきものにして、幸いに無事に保存するを得ば、後五百年、一種の古跡として見物する人もある可し」としるしておられる。まさに、三田演説館はわが国文化史上の貴重な記念物というべきであろう。
慶應義塾
三田演説会が福澤諭吉を中心として結成されたのが1874年。この建物はその翌年に竣工している。
幕末~明治初頭に流行した和洋折衷様式、いわゆる擬洋風(ぎようふう)建築。
当時ニューヨークに駐在していた副領事・富田鉄之助が依頼されて集めた、多くの公会堂の建築資料がもとになっている。
なんとこの日は内部見学を許されていた。
玄関側2階から。
壇上のバックの壁は声が響きやすいように曲面を描いている。
一万円札でお馴染みの肖像だが、身体全体が収まると堂々としている。
”Speech”を”演説”と訳したのが福澤諭吉であることを初めて知った。
演台を正面から。
上がらせていただくこともできた。
演台からの眺め。演説するわけでもないのに緊張した。
椅子の背には慶應の紋章が。
上下開閉の窓。現在は桜田通り側が良く見える。
壁はシンプルな白だったが天井には模様が施されていた。
奥壁に沿ってカーブする天井のライン。
柱上部の間にはゆるやかなアーチ。
この日は”立入禁止”の2階へ上がることもできた。
2階バルコニーには両サイドに空調設備が置かれていた。おかげで内部は涼しく快適だった。
2階からの眺め。
反対側のバルコニーから。光あふれる開放的な室内だった。
外に出て、建物南面。木造の板壁に平瓦を並べて貼り、その目地に漆喰をかまぼこ型に盛り上げるのが”なまこ壁”
玄関の先には、5年前に竣工したばかりの南校舎が聳える。
振り返っての演説館。140年以上の時を経ても凛とした佇まいだった。
つづく。