墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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桜谷古墳 富山県高岡市太田

前回のつづき。

柳田布尾山古墳見学後は車で8分の桜谷古墳へ向かった。この日に探訪した最後の、5つ目の古墳。 

 

国道415号沿いに少し古めの看板があった。

 

看板横の細道を入ると駐車場があった。

史跡・桜谷古墳(さくらだにこふん) 

 

詳しい説明板があった。

国指定史跡 櫻谷古墳(二基) 昭和9年12月28日指定
古墳時代は、弥生時代に始まった農耕が、鉄器の普及、灌漑技術の発達、耕地の拡大などによって、農業生産が著しく向上し、大きな経済力と権力をもった地方豪族が現れた時代です。
古墳とは、弥生時代末期から奈良時代初期(3世紀末頃~7世紀初め)にかけて築かれたこれら有力豪族の墳墓であり、前方後円墳・円墳・方墳などの基本形があります。
桜谷古墳の発見は、大正7年9月、開墾のため、元諏訪社の老松の根を掘り上げた際、銅鏡1面と管玉53個が出土したことに始まります。宮内省・内務省・県史跡調査委員会等の調査で、大正13年までに前方後円墳2基と円墳7基が確認され、多数の遺物も出土しました。出土遺物は、碧玉製紡錘車(糸をつむぐ道具)同石釧(腕輪)・同管玉(数個を連ねて首飾などの装身具にする)・仿製内行花文鏡(漢式鏡を模倣した銅鏡)・金環(耳環)・金銅製帯金具・刀・土師器・須恵器人骨などで、東京国立博物館、高岡市立博物館に保存されています。
円墳7基は、戦時中に食糧増産のため畑地となり、確認しがたくなりましたが前方後円墳2基は5世紀初頭以前の築造と推定され、規模の大きさや出土遺物の豊かさから、北陸を代表する古墳といえます。内部調査は行われていませんが、北陸地方の文化の発展を理解するうえで貴重な資料となっています。
この2基の前方後円墳を保存するため、昭和40年から43年にかけて土地の買収と環境整備工事が行われ、史跡公園ができました。地元では桜谷古墳群保存会を結成して、史跡の清掃管理や、文化財の愛護活動につとめています。
なお、古墳の南側を県道(現在は国道415線)が通過することになり、昭和51年から52年度に工事区域の発掘調査を実施したところ、新たに円墳1基(6世紀)と箱式石棺2基が発見されたので、遺構の上に陸橋を架けて保存しています。
・1号墳 全長62m 前方部幅30m・高さ5.45m 後方部径35m・高さ6m
・2号墳 全長50m 前方部幅不明・高さ1m 後方部径33m・高さ6m
昭和59年10月 高岡市教育委員会

 

図の部分のアップ。

 

まずは階段を上がって2号墳へ。 

 

草の刈られた墳丘があった。 

 

踏み跡に沿って上がらせていただく。

 

段築らしきものがある。

 

後円部からは富山湾がすぐ近くに見えた。

 

すぐ先は前方部の名残りか。

 

高岡市のサイト桜谷古墳にも詳しい情報がある。

1・2号墳とも内部は未調査だが、2号墳後円部から紡錘車・石釧が出土していることや古墳の形態から、1・2号墳は5世紀初頭を下らぬ時代の築造と推定されるそうだ。

「地方には希な大型前方後円墳であることや、立地条件の良さから、この地方の有力首長、一説には伊弥頭国造である大河音足尼一族の墓と考えられています」との記載もあった。

ここも墳丘からの眺めは素晴らしいので、2号墳の墳丘も復元整備すれば60m級の前方後円墳が隣り合う歴史観光資源として人気がより高まるのではないか・・・

 

海岸の近くには瓦屋根のきれいな家が並んでいた。

 

少し右に目を転じて。

 

さらに右へ。国道415号が見える。古墳は二上山から続く丘陵が平野に落ちる直前に立地している。

 

グーグルアースで。

 

北西方向に広がる平野。中央やや右奥の丘の上に柳田布尾山古墳があるはずだが目視はできなかった。桜谷古墳のほうが100年ほど後に造られている。

手前のビニールハウスの先が後円部を左奥に向けた桜谷1号墳。

 

公園としての施設(ベンチ)は草に埋もれかけていた。

 

駐車場へ戻り道を隔てた1号墳へ。

 

こちらは草で覆われた墳丘だった。

 

道はついておらず腰高以上に雑草が生い茂っていたので、前方部の端に登るのがやっとだった。

前方部左下から後円部方向。

 

側面の道から後円部を鑑賞。

 

その背面の道路の下には円墳が保存されているはず。

 

この土盛りがそうか。

 

道の反対側へ回ってみたが近づけなかった。

 

道の上から見た1号墳。左が後円部で右奥が前方部。

 

新しい案内板もあった。

この時点で少し時間に余裕があったので、最初の看板にあった旧武田家住宅へも行ってみることにした。

つづく。