墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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府中市郷土の森・復元建築物 東京都府中市南町

前回のつづき。

博物館の見学後、限られた時間しかなかったが屋外の移築建築物も見て回った。

敷地面積は13haと広大だが、建物があるエリアはある程度集中している。

園内マップ

園内マップ|公益財団法人府中文化振興財団より。

 

まず”ケヤキ並木”に沿って南へ。この先で直交する”甲州街道”など、府中市の地理の縮小図がイメージされている。

 

”甲州街道”で一際目を惹くのがこちらの旧府中町役場。

 

大正10年竣工のモダンな木造の洋風建築。東京都有形指定文化財。

こちらは説明板を撮っていなかったので公式サイト・旧府中町役場庁舎|公益財団法人府中文化振興財団より。

旧府中町役場庁舎 旧所在地:府中市宮西町1-8

東京都指定有形文化財(昭和62年2月指定)

1921年(大正10)に完成した洋風の町役場の庁舎です。 地方自治を謳う大正デモクラシーの風潮のなか、財政難にもかかわらず町民の熱意によって3年かけて建てられました。屋根の飾り天窓(ドーマー・ウィンドウ)や錘を内蔵した上げ下げ窓などを取り入れた洋風の2階建て建築ですが、正面車寄せの屋根を和風の唐破風とし、裏側には和風平屋の建物を付設させている点に大きな特色があります。1954年(昭和29)4月の府中町・西府村・多磨村の合併による府中市誕生後も、市役所、市立図書館、教育研究所等に利用されました。多摩地域に現存する最古の役場建築で、大正時代の建物としては東京都の文化財指定の第1号です。

 

1階の内部。大きなカウンターがある。

 

スリッパに履き替えて中へ。部屋の片隅に金庫と事務机が置かれていた。

 

宿直室はその日も人が寝起きしていたような畳の雰囲気だった。

 

こちらは湯沸室。このあたりはガスはまだだったのだろう。

 

2階への階段を上がって振り返ったところ。

 

2階の展示室。窓が大きく明るい部屋だった。

 

江戸期幕末~1872年竣工の旧矢島家住宅(旧郵便取扱所)

 

こちらが説明板。

旧府中郵便取扱所(旧矢島家住宅) 旧所在地:府中市宮西町4-11

明治5年(1872)から22年までの間、府中郵便取扱所(郵便局)として使われた矢島家の居宅の一部を復元したものです。矢島家は江戸時代には甲州街道府中宿の番場宿の組頭を勤め、旅籠も営んでいました。明治維新の時は甲州街道を通る官軍の本陣ともなりました。明治政府が近代郵便制度の確立を急ぐなか、当主の久兵衛が郵便取扱役に任命されると、自宅は窓口を設けるなどの改築が加えられ、郵便取扱所として急遽開設されました。大正時代には洋風建築に改造され、当主源太郎以降、歯科医院として使われてきましたが、昭和61年(1986)に解体、平成元年(1989)に郷土の森博物館に復元されました。

 

明治21年築造の旧島田家住宅。島田薬舗(やくほ)の看板は”明治の三筆”の書家・巌谷一六(1834~1905)の筆によるものだそう。

 

説明板。

旧島田家住宅(店蔵) 旧所在地:府中市宮町2-1

明治21年(188)完成の蔵造りの商家です。甲州街道府中宿の新宿にある島田家は、寛政9年(1797)から金物、天保5年(1834)からは薬種業も営んできあした。店舗の築造には明治19年から足かけ3年をかけています。1階が店舗、2階と屋根裏(3階部分)が倉庫になっています。屋根の下も含めすべてが厚い土壁で覆われる置屋根構造をとり、厳重な防火建築であることが特徴です。近くで火事が発生すると、正面に土戸をはめ込み、隙間を土で塗り込めることになっていました。昭和57年(1982)に解体されましたが、昭和60年から3ヵ年の計画で、伝統的な工法を再現しながら忠実に復元されました。

 

店の中も、引き出しだらけの箪笥や収納のついた階段など興味深い什器・家具が並んでいた。

 

こちらはその裏手にある旧河内(こうち)家住宅。江戸中期の茅葺き農家。

 

その説明板。

旧河内家住宅(ハケ上の農家) 旧所在地:府中市若松町3-34

江戸時代中頃から昭和期まで使われていた茅葺きの農家です。河内家(こうちけ)は旧人見村(府中市若松町)にあり、麦などの畑作や養蚕を営んでいました。

人見村は府中市の北東部、立川段丘(ハケ上)を東西に走る人見街道沿いに開けた村です。調査によれば、この建物は天保15年(1844)に旧大沢(三鷹市)から移築され、その後も明治末期、昭和4年(1929)、昭和33年(1958)に大きな改造があったようです。特に、広間を部屋に区切り、棟の空気抜き室・格子欄間・簀子天井を設けた明治末期の改築は、保温・通風・採光をよくする養蚕のためのものです。府中で養蚕が最も盛んだった明治末期の姿に復元されました。

 

内部はお盆の仕様か。光のあたった蚊帳に人の気配が感じられた。

 

逆サイドから。

 

屋根が張り出した部分の茅葺きのカットが美しかった。

 

こちらは旧田中家住宅。江戸中期築造の大商家。

 

入り組んだ構造の母屋。

 

その説明板。

旧田中家住宅(府中宿の大店) 旧所在地:府中市宮町1-8

江戸時代中期から明治期にかけて、甲州街道府中宿の新宿にあった大店(代表的な大きな商家)の全体を復元したものです。田中家は柏屋の屋号で呉服や酒類などを商い、百姓代や駅用掛を勤め、幕末には府中宿で最大の土地所有者でした。街道沿いの町屋特有の、間口が狭く奥行が長い屋敷割りを、表蔵を含む5棟の土蔵を備えるなど風格のある建物になっています。府中近辺に明治天皇が来訪した際に、休息所の宿所(行在所)として使われ、本瓦葺きの表門(御成門)、式台付きの玄関、奥座敷(御座所)などが造られました。平成元年(1989)、保存されていた奥座敷部分を中心に、屋敷全体が復元されました。

 

頑丈そうな蔵。 

 

蔵の中では壁の造りに関する展示があったが時間の都合で外からだけ。

 

奥行の深いお座敷。

 

井戸(?)のある土間。

 

手入れの行き届いた通路。

 

明治天皇も訪れた。御座所

 

その北側、博物館に最も近い場所には旧府中町立府中尋常高等小学校校舎がある。

 

重厚な玄関。

 

その説明板。

旧府中町立府中尋常高等小学校校舎 旧所在地:府中市寿町2-6

昭和10年(1935)に建てられた府中尋常高等小学校校舎の中心部分を復元したものです。当初は、教室35、特別教室4、来賓室・応接室・職員室各1が大きなコの字形に配置され、延べ床面積は6,270㎡、北多摩郡随一の規模と言われていました。戦争中は府中国民学校、戦後は府中第一小学校と校名は変わりましたが、昭和54年(1979)に新校舎建設のために解体されるまでの約43年間、多くの子供たちがこの校舎から巣立っていきました。郷土も森博物館開設に先立つ昭和58年(1983)この地に復元され、教育用資料展示室・詩人村野四郎記念館・多摩川ふれあい教室として活用されています。

 

玄関から奥側。内部も見学できるが閉館間際になっていたので次の機会とした。

 

自分も小学校低学年の頃は場所は異なるが板壁の木造校舎(現存せず)だったので、懐かしさを感じた。同年代でこの府中第一小学校に通った方も大勢おられるはず。

 

博物館側から見た旧校舎の背面。

 

郷土の森には他にも、縄文中期の柄鏡形敷石住居跡や文政2年(1829)創建の旧三岡家長屋門(東京都指定有形文化財)、江戸後期創建の茅葺き農家・旧越智家住宅や、武蔵野台地に古代から見られた「まいずまいず井戸」など、さまざまな遺構が移築・復元されているが時間がなくて回れなかった。

実家に近い場所なので、次の機会に家族で訪ねてみたい。