墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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登戸稲荷社 神奈川県川崎市登戸

6月11日の土曜日、川崎市重要歴史記念物となっている長念寺の復原工事現場特別公開に参加した。

川崎市教育委員会と長念寺の主催で事前に募集があり、この日の3回目の見学会(13時〜13時50分)の枠に入ることが出来た。

 

小田急線・南武線の登戸駅下車で徒歩20分。

高架の小田急線と地上の南武線が十字にクロスしている登戸駅。

 

駅の北側に向かおうとするが、線路が十字に通るので地図上の現在地がわかりにくく、うろうろしてしまった。 

駅の近くの石材屋さんの前で見慣れてきたサインを発見。

多摩川の水運と津久井道の便で大いに繁盛した吉沢石材店は江戸後期からの店。伊豆や真鶴の石材は渡し場のすぐ下流にあった淀みから荷揚げされた。その船着場を石屋河岸と呼んだ。

 

南武線の踏み切りの先は多摩川の土手だった。

 

踏み切りは渡らずに南武線の南側の細道を進み高架下をくぐる。

 

すると木々の茂る気持ちの良い境内があった。

 

「稲荷社」の扁額が鳥居に掲げられた登戸稲荷社。

 

参道両脇の石灯籠は厳重に守られていた。倒壊防止のため?

 

なかなか大きな社殿。

 

こちらにも「川崎歴史ガイド」の標柱があった。

稲荷社と左官職人

登戸には左官職人が多かった。腕前は東京、埼玉にまで評判が伝わっていたほど。登戸の鎮守、稲荷社は外壁が漆喰の彫刻で飾られ、当時の左官たちの意気込みを伝えている。

 

解説を読んで漆喰壁を見てみようと社殿を回ってみると、ガラスで保護された見事な模様の漆喰壁があった。

 

火灯窓の横にも。

 

奉納者の名前も誇らしげに記されていた。

 

ちなみに「左官」の由来は、 Wikipediaによると様々あるようだった。

「左官」の語源は、宮中の営繕を行う職人に、土木部門を司る木工寮の属(さかん、四等官の主典)として出入りを許したことから(『日本国語大辞典』他)というものが巷間に広く知られているが、建久元年(1190年)十月に東大寺の再建大仏殿の棟上のときに大工そのほかの職人が官位を受領しているが、そのとき壁塗が左官となったこと(『玉葉』)に基づいたものとする説(『国史大辞典』)もある。

一方で、実際に「左官」として使われだしたのは桃山時代からという説もあり、この場合、朝廷から、官位を直接受領したものではない可能性がある。「沙官・沙翫」と表記されていたこともある。建築の「木」に関わる職を「右官」と呼んでいた説もある。

 

登戸稲荷社の社殿は、仕切り壁の木彫も見事だった。

 

稲荷社をあとにして住宅街を進む。農地も残っていて直売所もあった。

 

微妙にカーブを描く道を進む。

 

板壁や窓の桟が美しい、 昭和の香りが漂うお宅。

 

また野菜の直売所があった。

 

キョロキョロしながら歩いていたらあっという間に目的地に到着した。

つづく。