墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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鰭ヶ崎三本松古墳 現地説明会 千葉県流山市鰭ヶ崎

 6月18日、下記の現地説明会に出かけた(幸谷駅構内ポスター)

 

昇寛さんのサイトで昨年(2015)11月に現地説明会があったことを後から知り、流山市のサイトをチェックしていて再度の「現説」の情報をつかんだ。

鰭ヶ崎三本松古墳の調査状況|流山市

 

武蔵野線・常磐線の新松戸駅で降り、横断歩道を渡って幸田駅で流山電鉄に乗り換えて2駅目が鰭ヶ崎(ひれがさき)駅。駅前から案内板がついていた。

 

辻ごとに看板が立っていて懇切丁寧。

 

14:30からの最終回にぎりぎり間に合った。

 

受付の場所を振り返ったところ。

 

小さな考古学者たちも!

 

子供たちにもわかりやすい説明を約20分。

舌状台地上に築かれた前方後円墳の図。

 

昭和30年代に台地下の田を宅地にするために、台地の土が削られてしまった。

 

以下はいただいたパンフレットより。

現在流山市教育委員会では、鰭ヶ崎・思井土地区画整理事業に伴い、平成27年7月より鰭ヶ崎三本松古墳の発掘調査を実施しています。江戸川左岸においては、市川市法皇塚古墳、同弘法寺古墳に次ぐ規模の前方後円墳です。鰭ヶ崎三本松古墳は、昭和30年代後半に古墳の裾ぎりぎりまで土が取られ急な崖となり、豪雨等により土砂崩れ等の危険があることから区画整理事業のなかでは古墳を現状で残すことが困難となりました。そのため、記録保存の発掘調査を実施しています。

 

 

資料にあった、3ヶ月前の上空写真。

 

墳丘ぎりぎりまで削られ、縁は垂直に近い急斜面になっているので、現状での保存は困難とのこと。比高差を縮めて(つまり墳丘のある地表面を数メートル掘り下げて)、古墳を復原することは検討されているようだった。

 

墳丘の裾の説明で。3人が手を挙げているが左の方の位置が周溝、右の方の位置が墳丘で、中央の方のところは平面になっている。

もともとは中央の方のところも墳丘で、後世に改変されてしまったことが調査でわかった。

周溝から全長を推測すると墳丘は40mにもなるそうだ。

 

周溝も前方部側は中世、近世に掘られた土坑で改変されている。

 

いざ墳丘へ。

 

墳丘は縦軸と後円部横軸にトレンチが掘られている。掘り下げられた通路を歩くので、実際の墳丘上から1.5~1.8mほど低くなる。

 

前方部から南東側。かつては水田が、遥かむかしの縄文海進時は入り江が広がっていたはず。

 

墳丘ぎりぎりまで台地が削られていることがわかる。

 

ズームすると特徴のある建物も見えた。

 

説明を聞く人々。

 

東側、本土寺がある台地が見える。

 

墳丘断面は段築などの土の質の違いがわかるように境目を線で刻み、後世の改変が明らかなところとの境目には白いロープが貼られていた。

 

土器(埴輪?)が刺さったところも。

 

後円部を横断するトレンチで。南側を望む。

縦のトレンチを掘る前のレーダー探査で主体部(埋葬施設)らしき影が見えたが、掘ったら版築の土で、今も主体部は見つかっていないそうだ。

現時点では、この後円部右側にあるのではとの予想があるそう。

 

後円部の軸線上の先、東側。

 

前回の現地説明会時の写真だが、2年前に来た時は木々に覆われていて藪蚊の猛攻を受けた。

 

後円部墳頂。

 

後円部の北側は擁壁がなく、すぐ切れ落ちていて危険な状態。

 

後円部裾から見た周溝。結構幅がある。

 

後円部を横から見ている位置。

 

出土した埴輪の展示もあった。

 

この地で出土した円筒埴輪。3つの突帯、90度互い違いに開いた穴などが下総型埴輪の特徴。

 

比較対象に、東深井9号墳出土の埴輪(北武蔵の特徴)も置かれていた。

 

流山市内の利根運河の南にある。


下総型円筒埴輪は厚みも結構あった。

 

鰭ヶ崎三本松古墳からは馬形埴輪の破片も出土している。馬のお尻、しっぼが抜けたところ。

 

その裏は、しっぼをあとから穴に埋めた跡が残っていた。

 

同じく当古墳から出土した人物埴輪。

 

結構鼻が高い。

 

地元の方が「このあたりで出土した」ということで鰭ヶ崎小学校の校内で50年ほど展示されていたものだが、今回の発掘調査で出土した「髷」がぴったり一致したとのこと。

 

当古墳の埴輪であったことが実証された。

 

当古墳出土の埴輪破片出土の位置には後世の撹拌がかなり認められるそうだ。

以下はいただいた資料より。 

出土した埴輪から古墳を考える

古墳がつくられた頃、埴輪は墳丘の周りに並べられていました。

鰭ヶ崎三本松古墳の発掘調査で出土した埴輪(黒い点)はいろいろな場所から見つかっており、完全な形を保っているものはほとんどありません。このことから、埴輪はもとにあった場所から大きく移動してしまったと考えられます。

 黒い点が埴輪片の出土位置。

 

受付のテントから北側を見ると、前は渡れた橋が壊されているところだった(架け替え工事)

 

テントの位置から墳丘(右奥)

 

この看板を見るのは3度目。

 

前はここに細道があった。

 

前に上り下りした階段も通行禁止になっていた。

 

崖下から見上げる墳丘のある台地。

 

北側、道路の切り通しにあった階段は跡形もなくなっていた。

 

切り通しの対岸を登ったところからの説明会場。