赤坂で所用があり、日枝神社に立ち寄って参拝した。
外堀通りを隔てて。右奥はザ・キャピトルホテル東急。
三角の破風が特徴的な山王鳥居。
北から伸びる台地の先端に位置する。
参道には屋外エスカレータがある。
踊り場で乗り換え。こちらは傾斜がゆるく段差が小さい。
降りたところの案内図。
3つ目のエスカレータに乗り継いで頂上へ。
石段の上から見下ろしたところ。標高は28mとのこと。
南神門から。
神門は東側にあり、拝殿は西側に位置する。
内側からみた神門。
拝殿は逆光になってしまった。右に聳えるのはプルデンシャルタワー。ホテルニュージャパンの跡地。
拝殿前から南東側。左がキャピトル東急で右がNTTドコモの本社が入居する山王パークタワー、旧山王ホテル跡地。
6月7日から17日まで、山王祭が盛大に開催されるそうだ。
徳川時代、江戸城内に入御した御神輿を、三代将軍家光公以来、歴代の将軍が上覧拝礼する「天下祭」 として盛大をきわめ、江戸三大祭の筆頭として、さらに京都の祇園祭・大阪の天神祭と共に、日本三大祭に数えられているお祭りで、例年6月に開催されます。
境内では太鼓の音も心地良い、楽しい歌と踊りの納涼大会をはじめとして、江戸時代の伝統芸能である邦楽やお茶、お花など様々な行事が開催されます。また、隔年で神幸祭が開催され、東京都心を300mの祭礼行列が練り歩きます。東京の中心で江戸時代にタイムスリップしたかのような体験をぜひご堪能ください。
行列の位置をリアルタイムで示す便利なアプリもあった。
神門の西側には52段の石段。
外国からの方々がビデオ撮影中だった。
日枝神社 (千代田区) - Wikipediaによれば、太田道灌が江戸城築城にあたり川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請、それを徳川家康が江戸城内の紅葉山に遷座、さらに秀忠が麹町隼町に遷座したが明暦の大火で社殿を焼失したため、万治2年(1659年)に家綱が松平忠房の邸地に遷座した場所が現在地とのこと。
境内北側の様子を見に行くと、鳥居のトンネルがあった。
下まで降りると別の山王鳥居。奥の提灯が鳥居のトンネルへ続く。
鳥居が面する道路を上っていった。
こちらが坂の「峠」あたり。再び道は下り坂になる。日枝神社が舌状台地に上にあることを実感できた。向かいは日比谷高校。
坂を下りていくと日比谷高校の立派な門があった。
降りてきた道はさらに下って、再び国会議事堂目指して上っていく。
上記のあたりの日枝神社駐車場敷地内にあった説明板。
江戸・東京の農業 わが国黎明期の牧場
江戸城内に社があった古い歴史をもつここ日枝神社は、かつては、南は芝、西は麹町、東は霊厳島小網町、北は神田に至る、広大な氏子地域をもっていましたが、それは明治の初め東京の酪農誕生の地域でもありました。
明治6年にはすでに7軒の牧場があり、竹橋には、吉野文蔵が幕府の牧場を引き継ぎ、芝桜川には明治4年、洋式搾乳の先駆者前田留吉が、下谷には旧幕臣辻村義久が、麹町五番町には阪川当晴が、そして木挽町に越前屋守川幸吉が牧場を開きました。
このように殆どが江戸幕府崩壊による失業武士によるものでしたが、大官、貴族による開設も続出。男爵松尾臣善が飯田町、佐倉藩主堀田子爵が麻布、榎本武揚、大鳥圭介が神田猿楽町、さらに明治8~9年の頃になると、松方正義が芝三田に、山県有朋が麹町三番町に、由利公正は木挽町に、桑名藩主松平定教は向柳原に、副島種臣は麹町霞ヶ関に、細川潤次郎が駿河台で牧場を開設したほか、平川町、永田町、三崎町、錦町などにもたくさんの乳牛が飼われており、日本の畜産の黎明はこの社も地域からスタートしています。
平成9年度JA東京グループ 農業協同組合法施行50周年記念事業
駐車場の奥にも境内へ上がる石段があった。
途中で「山の茶屋」へ至るわき道が。深山のような趣。
一度は行ってみたいが…
山の茶屋 (やまのちゃや) - 国会議事堂前/うなぎ [食べログ]
石段を登り切ったところから振り返って。
上の道は車祓所の脇をすり抜けた先に続いていた。
さきほどの神門前の石段を下った。
下った先は牧場の説明板があった駐車場から続く道に出る。写真の左にキャピトル東急があり、その奥に境内に上がる山王女坂があった。
キャピトル東急の北西側入口。ビルの向う側には首相官邸がある。
ホテルの北側にはさらに下る通路があった。奥は議員会館。
通路の北側は基礎だけが残ったビルがあった。
山王女坂を上って再び境内へ。
説明のある標柱があった。
この坂を山王女坂といいます。
正面の石段に対しその名がつけられています。
また、別の名は御成坂ともよばれています。「東京名所図会」には、左緩かに通ずる石階を女坂と呼ぶは非なり。昔時将軍家御成の節、峻坂を避け、北坂のみ御通行遊ばされしにより、御成坂と申侍るを女坂と聞誤りしにはあらぬかと、書かれています。
最初に上がった石段の脇道を降りた。
結局境内を1周半ぐらい登ったり降りたりした。
独立丘に近い、とても興味深い地形。
古代には古墳があったにちがいないと、いつもながらの感想を持った。