前回のつづき。
小山市立博物館の隣には国史跡の古代瓦窯跡がある。
説明版の上にも瓦。
史跡乙女不動原瓦窯跡
乙女不動原瓦窯跡は古代下野国の寒川郡に位置し、古瓦が出土する遺跡として古くから注目されていました。
昭和52年の確認調査や昭和63年から5ヵ年にわたる発掘調査の結果、瓦を焼いた4基の窯のほか、工房や粘土採掘坑・粘土溜・瓦集積場・灰原など、瓦生産に関するさまざまな遺構が発掘されました。また、出土品には丸瓦や平瓦が多数ありますが、八葉複弁蓮華文軒丸瓦や笵傷(はんきず)のある均正唐草文軒平瓦、文字の書かれた文字瓦も見つかっています。
ここで焼かれた瓦は、下野薬師寺や下野国分寺などの寺跡、あるいは宇都宮市の水道山瓦窯跡から出土した瓦と共通した特徴をもち、供給先や工人の動きを辿ることができました。
また、当窯跡には有牀式平窯(ゆうしょうしきひらがま)と呼ばれる最新式の窯がいち早く導入されています。このことからも、国家的な事業であった下野薬師寺の再建や国分寺造営の一翼を担った当窯跡の重要性を物語ることができます。
小山市のサイトにも詳しい解説があった。
この史跡は、奈良時代の頃(今から約1250年前)、日本三戒壇の1つであった下野薬師寺に瓦を供給した瓦窯跡として注目され、昭和53年に国史跡として指定を受けました。
発掘の結果、4基の窯跡、灰原(木の燃えかすを捨てた所)、粘土発掘抗(瓦の材料になる粘土を掘り出した所)、工房跡など貴重な遺構が見つかっています。また、下野薬師寺や下野国分寺跡から出土した瓦と同じ、ハスの花をかたどった文様の鐙瓦や唐草文様の宇瓦をはじめ、男瓦、女瓦など数多く出土しています。
ちなみに下野薬師寺は奈良時代には奈良の東大寺、筑紫の観世音寺と並ぶ日本三戒壇のひとつだった。7世紀末からこの地の豪族は中央と密接な関係を持っていたことは興味深い。下野市 - 下野薬師寺跡
770年、称徳天皇の崩御後に道鏡が左遷された寺でもあった。下野薬師寺跡 - Wikipedia
当瓦跡の解説は文化庁のサイトにも載っていた。
こちらは土の広場と粘土溜跡。
土の広場
採掘された粘土の保管から調合・熟成を経て、生瓦の形成までの作業空間と考えられます。周辺には工人達の住まいや燃料となる樹木の茂る林が広がっていたものと考えられます。
粘土溜跡
使用直前の粘土が、瓦の成形や焼成に十分耐えられるよう、混ぜものをしたりした場所と考えられます。
こちらは粘土採掘坑跡。
粘土を採った跡、あるいは採った粘土を一時的に溜めて置いた場所と考えられます。必要に応じて掘り出された粘土の範囲は四角い穴となって整然と並び、周囲には使われなかった粘土が残されています。
工房跡
瓦の成形をおこなう作業台を据える穴をもつ竪穴式の建物跡です。4本柱と8本柱の違いはありますが、壁はなく切妻型の簡単な屋根が葺かれた作業小屋と考えられます。
瓦集積場跡
正確な用途は不明ですが、瓦の破片が大量に見つかっています。灰原から出る瓦片が少ないので、焼き損じた瓦や完成品の置き場所のような所と考えられます。
斜面につくられた窯を上から見たところ。
下から見た”平窯”
平窯構造をもつ4基の窯は、谷から吹き上げる風を利用できるように台地の縁辺部に並んでいます。隣り合う2基1対の操業が考えられ、次々と瓦の焼成が行われるよう工夫されています。
横から。
このような窯跡が4基並ぶ、「炎の広場」
一番左側に平窯の構造がわかるような原寸復原模型があった。
平窯構造模型
1号窯を基に復原したものです。
生瓦を詰める焼成室と燃料を燃やす燃焼室、作業場としての前庭部からできています。燃焼室の天井付近は瓦を芯にして粘土で作られ、燃焼室全体は地面を掘り残して作られたと考えられます。
また、瓦の出し入れには、焼成室の天井を一部壊して行われたと考えられます。
窯の構造で注目されるのは、焼成室の床に設けられた6本の土手と7条の溝です。「ロストル」と呼ばれるもので、焼成室と燃焼室の境に設けられた分焔孔から吹き出す炎や熱が焼成室内へ均一に行き渡るように工夫された部分です。
1250年前の最新技術。
「ロストル」はオランダ語で火格子とのこと。須恵器とともに大陸から渡ってきた技術だろうが、オランダ語で呼ぶことには違和感を感じる。
灰原跡が窯の前にあった。
窯からでる灰をかき出した場所で、窯構築時の排土や瓦片の混じる灰が堆積しています。土中からは寄生虫の卵が検出されており、工人達が作業の合い間に用を足したこともあったようです。
屋外にあった模型。
120年ほど前の近代日本の最新鋭建物を形づくった煉瓦窯 を見た日に、1250年ほど前の古代日本の最新鋭建物を形づくった瓦窯跡を見ることになった。
煉瓦と瓦は材料も製法もあまり変わらない。両方とも「次々と生産できる工夫」もなされていて、当時外国から最も進んだ技術を取り入れたことも同じ。
そして、古代ではそれまで土器をつくっていた職人が、明治期はそれまで瓦を焼いていた職人が積極的に新しいやり方を身につけた、というところも一緒なのではないか。
古代の人の心の一端にも触れることができたような気がした。