何十年も東京近辺に住んでいながら等々力(とどろき)渓谷へ行ったことはなかった。
渓谷を見に行くときは奥多摩や千葉県の養老渓谷へ向っていた。もし古墳に興味を持たなかったら、ずっと行かないままだったかも知れない。
が、等々力渓谷横穴墓は「関東古墳探訪ベストガイド」にも掲載されているので、行く機会を窺っていた。
東急大井町線の等々力駅下車。
地上の島式ホームで改札を出ると踏切となる。
出口の案内に沿って左へ向うと渓谷入口がある。歩道にあるケヤキの大木が目印。
下は曲って駅のほうを振り返ったところ。
すぐに”ゴルフ橋”が現れ、手前を階段で下へ降りていく。橋の名はかつてこの一帯がゴルフ場であった名残り。
橋の上から下流方向。
階段の反対側に名勝としての渓谷の説明板があった。
東京都指定名勝 等々力渓谷
所在地:世田谷区等々力2丁目外 指定:平成11年3月3日
等々力渓谷は、国分寺崖線(ハケ)の最南端に位置する約1kmの都区内唯一の渓谷である。谷沢川が国分寺崖線に切れ込んで浸食したもので、台地と谷との標高差は約10mある。渓谷の斜面には、武蔵野の代表的な樹木であるケヤキをはじめ、シラカシ、コナラ、ヤマザクラ、イロハカエデなどとともに、常緑のシダ類のような湿性植物が繁茂しており、渓谷内には至るところから湧水の出現が認められる。
玉川全円耕地整理組合が、昭和5年から13年にかけて谷沢川の流路を整備し、小径を設けるまでは、不動の滝からゴルフ橋にいたる渓谷内には殆ど人の立ち入ることも稀で、雉などの鳥類やイタチ、キツネなどの小獣類、各種昆虫類の宝庫であった。
都内とは思えないほどの鬱蒼とした樹林と渓谷美は、幽邃な景観を呈し、武蔵野の面影をよく残している。東京を代表する自然地理的名勝として貴重であり、植生学、地質学及び地形状重要である。平成11年9月 東京都教育委員会
崖下に降りて見上げたゴルフ橋。
想像していた以上に鬱蒼としていた。崖沿いにつけられた道はすれ違うには厳しい箇所もあった。手すりがないので気をつけないと落ちる。
下にあった説明板には”河川争奪”の歴史も書かれていた。
かつては、この谷沢川の上流部の緩やかな流れは、呑川の支流であった九品仏川の上流でした。そこに段丘面の南に形成された谷沢川が九品仏川に向って浸食を深め、やがて九品仏川の上流部と谷沢川がつながり、段丘を南北に横断する形になりました。
このため谷沢川の水量が増し、浸食を深め等々力渓谷の地形が形成されました。
現在は、川の水量を確保するため、区内を流れる仙川の浄化した水を、この谷沢川まで導水しています。
赤土らしきものが滲みだしているところもあった。
左岸から右岸へ。
水面の鴨が急に飛び立った。
崖上へ続く急な階段。この先に野毛大塚古墳があるが今回は通過。
古墳探訪開始間もない3年前に訪れた。子供の幼さに時の流れを感じる…
国史跡・亀甲山古墳 宝莱山古墳 野毛大塚古墳 東京都大田区 - 墳丘からの眺め
水面ぎりぎりの橋もあった。
橋から下流側。
ここから左岸を登っていった斜面中腹に横穴墓があった。
図解入りの説明板。
都史跡 等々力渓谷3号横穴
等々力渓谷の周辺では野毛大塚(玉川野毛町公園内)、御岳山狐塚などの古墳群が造られた後、古墳時代末から奈良時代(7~8世紀)にかけて横穴群が造られるようになります。
等々力渓谷横穴群は野毛地域の有力な農民の墓で、これまでに3基の横穴が調査され、現在は3号横穴が完全な形で残っています。
横穴は谷間の崖地に横に穴を掘って造られていて、玄室と羨道で後世されています。泥岩の切石でふさがれた玄室の床には河原石が敷かれ、3体の人骨とともに1対の耳環(イヤリング)と土器が副葬されていました。その前面には斜面を切り通して造られた墓道が延びています。ここには土器が供えられたり、火を焚いた跡があり、墓前祭が行われたことがわかります。1989年3月 世田谷区教育委員会
入口はアクリル板で塞がれていたが、ポストの差し入れ口くらいの開口部があった。
そこから撮った内部。近づくと明かりがついた。
天井カーブが少し尖り目のカマボコ型。スマホを中に落とさないように気をつけて撮影。
穴の前から見た渓谷。
さらに少し登ったすぐそばに、1号墳跡の標識。 穴はなかった。
同じく2号墳跡の標識。
そのまま登ると環状8号線に出る(渓谷を橋で越える)
横穴墓に戻る道。
そのまま谷沢川に沿っていくと等々力不動尊があった。
崖から水がしたたっている。 龍樋からが”不動の滝”。
等々力の地名由来は不動の滝の音が響き渡り「轟いた」からとの言い伝えがあるそう。
動画でも(7秒)
滝の横に石段があった。
途中には役行者を祀る祠。
階段を上がったところが等々力不動尊の拝殿。
等々力不動尊は台地の端に位置し、境内には展望台も。
展望台からの眺め。 桜の名所でもあった。