墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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那覇市立壺屋焼物博物館 沖縄県那覇市壺屋

前回のつづき。

壺屋界隈歩きの最後に、スマホで目的地として目指していた那覇市立壺屋焼物博物館を見学した。 

 

やちむん通り沿いに入口があるが、正面の幅が狭く、かつ奥まっていてあまり目立たない。

グーグルマップには入口が表示されないのでグルグル迷ってしまった。ここも周囲を2回りして”発見”(公式サイトの地図を見ればよかっただけですが)

 

建物は斜面に建つが、建設工事中に登り窯が発掘されている。

館内で、出土したほぼ同じ位置に復元された「ニシヌ窯 1号窯」

 

入館料は一般350円。展示スペースは広く、内装や照明もしっかりしていて「新しい」と思ったら、3/1にリニューアルオープンしたばかりとのことだった。

 

最初の展示は6600年前の土器の壺。紀元前4600年前になるが縄文時代とはならない。

 

壺屋で焼き物が盛んになるのは、1682年に3ヶ所の窯が統合されてから。

1682年だが江戸期の表記ではなく、康熙21年とあった。

 

焼き物の種類は釉薬を使用しない「荒焼(アラヤチ)」と、使用する「上焼(ジョーヤチ)」とに大別される。

 

ジョーヤチの甕。着物のような模様。

 

陶器の型については公式サイトにも解説があるが、英語版のみだった。

Basic Knowledge of Pottery

 

沖縄の博物館では戦時中の資料も、考古資料と同列にある重要な位置づけになっているように思われる。

沖縄県立博物館 沖縄県那覇市おもろまち - 墳丘からの眺め

 

参考展示なのか、壺屋でも作られていたものかはわからなかった。

 

終戦後、「沖縄の復興が沖縄から始まった」ことは、ブラタモリでも紹介されていた。

以下はパネルの解説。

壺屋から上がる沖縄復興の炎

沖縄では太平洋戦争で激しい地上戦が行われ人々の生活が破壊されました。終戦直後の沖縄では、捕虜となった民間人は収容所に集められ生活していました。そこでは生活必需品である日用雑貨が不足していて、アメリカ兵の捨てたコーラ瓶を切って作ったコップや、軍用機の廃材をとかして作ったヤカンや鍋などを使用して生活していました。そうした状況を改善するため、各民間収容所に散っていた陶工たちが集められ、1945(昭和20)年の11月10日、103人の陶工たちが陶器製造産業先遣隊として、民間人の立ち入りが制限されていた那覇にいち早く戻りました。その後、壺屋一帯を中心に復興が進んだこともあり、沖縄の復興は壺屋から始まったといわれます。

 

そういえば来週火曜日の深夜(4/27の25:55)にブラタモリ「那覇Ⅱ」の再放送があるようです。今回訪ねた場所を再確認したいと思います。

また、4/30(土)19:30からの「嵐山」編では予告に「古墳の石室に入る」とありました。これは見逃せません。

ブラタモリ - NHK

 

壺屋焼物博物館内には壺屋の民家も復元されています。

 

家の裏手には井戸も。

 

民家の向かいに展示されていた15世紀の石の厨子。

 

階段で2階に上がっていく。

 

 

大正末期から昭和初期の地図。沢山の窯があった。国道330号には鉄道もあったことがわかる。

 

現在は3つの窯跡を残すのみ。工房や製陶所は結構ある。

 

2階はシーサーの展示が中心。

 

 3階でも壺屋のシーサー陶工展という企画展をやっていた。

 

迫力と愛嬌を併せ持つ?

 

スイング中のかたも。

 

3階といっても斜面なので地続きで、外に出ると拝所があった。

以下は説明板より。

ニシヌメー(北の宮)

ニシヌメーは壺屋の拝所の一つです。「ニシ」とは方言で北のことを指します。

昔は、この知にニシヌ窯と呼ばれる登り窯がありましたが、大正7年に窯を崩して大和風のお宮を作りました。そこに土地の守り神である土帝君(トーティークン)と、焼物の神様がまつられ、北の宮(ニシヌメー)と名付けられました。

昔は、陶工やその家族が拝んでいましたが、現在では焼物の関係者だけでなく、壺屋地域の発展、健康祈願などの目的で拝む人々もいます。1998年 那覇市立壺屋焼物博物館

 北なのに”ニシ”とは・・

 

祠の前の木の根。

 

博物館の屋上は展望台のようになっていて周囲を見渡せた。

南側。左の木々は「南ヌ窯」があったところ。

 

北西側。市場のある方向。

 

北東側にはおもろまちのタワーマンションも見えた。

 

活発につぶやかれている公式ツイッターもあった。

那覇市立壺屋焼物博物館 (@TsuboyaPotteryM) | Twitter