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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

穴薬師古墳 茨城県猿島郡五霞町川妻

茨城県の古墳、寺社、遺跡、街歩き

権現堂堤の展望台から真北に4km弱、利根川南の堤のそばに穴薬師古墳がある。

実は展望台は埼玉県と茨城県との境にあって、その東から五霞町だった。

 

五霞町茨城県なのに利根川の南側にある。江戸期以前の古い川筋の名残りか。

五霞町 - Wikipediaによれば 「平成の大合併」時に、なんと埼玉県幸手市との合併も検討されたそうだ。

 

古墳の場所を探していたら、県道268号沿いに古風な書体の看板があった。

 

屋根で守られていたのは庚申塔

 

こちらの浄雲寺薬師堂に車を停めさせていただいた。

 

境内にはイチョウ?の巨木。

 

穴薬師古墳はそこから200mほど南の畑地の中にあった。

昇寛さんのサイト五霞町穴薬師古墳 » 埼群古墳館の写真では、古墳は満開のそばの花に囲まれている。

 

アプローチは少しゴージャス。

 

周囲の植木も丸く手入れされている。門扉の模様も凝っている。

 

茨城県五霞町教育委員会による、石に刻まれた説明板。

茨城県指定史跡 穴薬師古墳

指定年月日:昭和46年3月29日 所在地:五霞村大字川妻249番地 管理者:藤沼喜兵衛

この古墳は、直径30m、高さ4mを測る円墳である。主体部は、羨道、前室、玄室の3室からなる横穴式石室である。

石室の構築にあたって、下段に人頭大の丸い自然石を並置して基礎をつくり、その上に各面を設計した磚状を呈する軽石を積み上げて側壁とし、奥壁には五輪の塔を思わせる板状の石をあてるなど、すべてに特異な構造を示している。この種の古墳古墳時代後期の造営と思考されるが、関東地方には例がなく学術上貴重な存在である。

なお、この古墳については江戸時代赤松宗旦の「利根川図志」に、川妻の隠里膳椀伝説として紹介されている。

 

また、穴薬師古墳(茨城県指定文化財) | 五霞町公式ホームページにも詳しい解説がある。

川妻地区の薬師下にあるもので、奈良時代の貴族が造営したものといわれています。古墳の規模は、直径約30m、高さ約4mの小高い円墳で、中央に横穴式の石室が設けられています。

石室は、幅約2m、長さ約7mの規模で、奥部は高さ2mのひょうたん型をしています。その構造は、下段に30cm程度の自然石が並べられ基礎となっており、その上に整形した軽石を積み上げて側壁としています。また奥壁には板状の石を使って五輪の塔を思わせる模様が描かれています。

こうした構造の古墳は、古墳時代後期の造営と考えられていますが、関東地方には例がなく、学術上でも貴重な遺跡です。

古墳を造営した人々は、薬師像を安置して信仰しており、それを知った村人は穴薬師と呼ぶようになり、名前の由来となっています。

この古墳の北側には、川妻寺があり本堂には薬師如来像が安置されています。この川妻寺の薬師如来像と石室の薬師像との関連を位置づける資料は見当たりませんが、古墳に住んでいた人が熱心な薬師の信仰者であったことから川妻寺内に薬師像を置き替えて、村人が信仰を受け継いだ説。古墳に住む人がいなくなったころ、村人が新たな薬師如来像を建立したという説が考えられています。

また、穴薬師古墳には「隠れ膳椀」の伝説があり、村人が何人か分の膳椀を貸してくれるようにたのむと、翌朝に古墳の前に揃えて置いてあったと伝えられています。

その後、穴薬師古墳は長い間荒れるままに放置されていましたが、昭和47年5月に文化財保護の観点から復元整備が行われ、茨城県の指定文化財となりました。

(所有者 藤沼喜義氏)

 

 門は施錠されていた。

 

スキマから内部。

 

かがんでこのくらい。玄室の中ほどが障壁で区分けされている。

 

門扉の間からだとフラッシュが赤い縦棒にかかってしまう。

 

何枚も試してやっと撮れた奥壁。確かに右に傾く五輪塔のような…

再び、昇寛さんのサイト五霞町穴薬師古墳 » 埼群古墳館によれば、昭和40年代の調査・復元前は、石室は下部付近を残すのみだったそう。

また石室石材は茨城県では珍しい軽石の切石で、武蔵地方の強い影響が指摘されているとのこと。

 

周辺は昔から舟運の要衝だった場所。五霞町サイトの説明では「奈良時代の貴族」とあるが、どんな方であったのか。

 

墳丘へ上がる道はないようなので墳丘「を」眺めただけになった。

 

薬師堂の北には利根川の堤が聳えていた。

 

少し東に行くと堤に上がれる場所があった。

堤から上流側。奥は東北新幹線の橋梁。

 

下流側。銚子の河口はまだ127km先。

つづく。