墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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三吉石塚古墳 新木山古墳 奈良県北葛城郡広陵町三吉

前回のつづき。 

牧野古墳へ行くときには結構な風雨だったが、見学後は陽が射してきた。

馬見丘陵公園へ行く前に、少し南にある三吉石塚(みつよしいしづか)古墳へも行ってみることにした。

 

住宅街の中をスマホ頼りに歩く。

 

住宅街の公園にあった観光案内図。

結構縮尺が小さく、おすすめウォーキングルートの「神社仏閣古墳めぐりコース」は6時間18kmにもなる。

 

住宅街の先は低地になっており、その先の台地に墳丘が見えた。

 

台地沿いには川があった。北方向。

 

住宅地側を振り返ったところ。

 

丘を上ると墓地があり、その向こうに古墳があった。

 

後円部は2段に造られていて、墳頂と1段目の上のテラスの周囲に埴輪列が再現されている。

 

1段目も周濠部分には葺石で復元している。

 

いよいよ墳丘へ上がらせていただく。晴れ間が見えて嬉しい。

 

1段目テラス上の埴輪列。右端が「朝顔形」埴輪で、もともと口の開いた壺を下から円筒で支えていたものが一体化した形になった。

 

後円部墳丘。

 

墳丘から西南西の眺め。左奥が二上山でここから6km弱。その向こうは大阪府になる。

 

西北西側。ズームすると・・・

 

おそらく牧野古墳(ばくやこふん)の墳丘。直線距離では1km。

 

南側にも墓地が続く。

 

そして東側には新木山古墳(にきやまこふん)の後円部。

 

東側には短い前方部がついている。三吉石塚古墳は「帆立貝形前方後円墳」

 

2段目の葺石と墳頂埴輪列。

 

前方部の外堤から後円部。

 

右側の前方部。

 

左側の前方部。右側に比べて傾斜がゆるやかで”ぺしゃっと”している。

 

立体模型付きの説明板があった。

県指定史跡 三吉石塚古墳

三吉石塚古墳は、新木山古墳(全長200m)の外堤西側に接する場所に造られた東向きの帆立貝式古墳です。古墳は、後円部に短い前方部の付く形で、周囲に馬蹄形の濠がめぐっています。墳丘は、後円部が2段に作られ、第一段目には、円筒埴輪列に朝顔形埴輪を置いた埴輪列がめぐり、後円部の頂上には、蓋・短甲・家などの形象埴輪を置いていました。

墳丘と周濠部分の内側には、10~30cmの葺石を施しています。特に、後円部の葺石が縦に一列に並ぶところがあり、この葺石の列石間がひとつの作業単位であり、作業方法を示す基準であったと考えられます。葺石の材料は、前方部に使用されている黒雲母花崗岩が、葛麻町西方から、後円部の輝石安山岩が香芝市の二上山麓から運ばれてきたものです。

また、前方部の南東隅には、他に例を見ない張出部が設けられています。外堤部にも埴輪列がめぐり、周濠の幅が極端に狭いことから、墓道として造られたと思われます。

埋葬施設は未調査で、築造時期は5世紀後半と考えられます。

整備は、後円部の古墳の遺構を盛土で保存した上に、かさあげ方式で築造当初の姿を復元する工法を採用し、円筒・朝顔形埴輪は、出土遺物に基づき製作した複製品を設置しました。葺石材についても遺構の葺石の産地に近い場所の石材を選び、築造当時の積み方を模しています。

 

模型の部分のアップ。

全長45m、後円部径41.4m、後円部高6.5m、前方部長7m、前方部幅22m、前方部高2.5m、濠幅3m、外堤幅8m、外堤高0.5~1m 

 

個人的にはこの鋭角の前方部に惹かれた。

 

三吉石塚古墳と二上山。

 

次にお隣の新木山古墳へ。

 

全長200mの大きな前方後円墳。

宮内庁により「三吉陵墓参考地」(被葬候補者:第30代敏達天皇皇子 押坂彦人大兄皇子)として治定されている。

 

北側に周濠が残っていて水を湛えている。押坂彦人大兄皇子が眠るのは、牧野古墳の方なのか、それともこちらなのか。

 

南側は畑や残土置き場になっている。

 

道路から眺めながら後円部から前方部へと歩いた。

 

前方部の左裾。左折して前方部先端の縁に沿って北側へ向う。

 

途中に古墳への入口があった。

 

三吉陵墓参考地の立て札があった。

 

道路からここまでの部分は堤のようになっている。

 

堤の北側は周濠がため池に拡張されていた。

 

手前が前方部、その先に後円部。

 

そのまま北へ進みつつ振り返ったところ。

 

三吉石塚古墳と新木山古墳との位置関係をグーグルアースで。上の写真は突き出た”ため池”の右上角から撮っている。

つづく。