墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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国史跡・牧野古墳(ばくやこふん) 奈良県北葛城郡広陵町馬見北

前回のつづき。

この日の目的地は奈良盆地の南西にある馬見丘陵の古墳群、最初に訪れる牧野(ばくや)古墳は古墳時代後期末(6世紀末)の大型円墳で巨大な石室に入ることができる。

 

経路探索で表示されたルート案内でJR奈良駅に向かったが、最初の候補の電車に間に合わなかったので、次に表示された別のルートを取った。

大和路快速に乗って郡山駅で乗り換え、近鉄郡山駅から近鉄橿原線に乗るというもの。

下車して気づいたが、郡山の街中を17分歩くというルートだった。

「乗り換え」の途中にあった薬園八幡神社。

 

茅葺きの上を銅板で覆った屋根の下で参拝。

 

吊り燈籠の列があった。

 

拝殿から境内入口側。門の外が乗り換えで通る道。

 

近鉄郡山駅、月曜日の朝の日常的風景。

 

駅にあった案内図。中央上部の郡山駅から現在地まで歩いてきた。お堀や城跡のある城下町だった。

 

下は帰路の近鉄車窓からの郡山城。別の機会に訪ねてみたい。

桜の名所でもあるらしい。

郡山城跡(奈良県)の桜・お花見情報:桜の名所・お花見に行こう!全国桜のおすすめスポット2016:るるぶ.com

 

大和八木で近鉄大阪線に乗り換えて5つ目の五位堂駅で下車。馬見丘陵公園行きのバスに乗るはずが30分以上待つので、ちょうど来た真美ヶ丘センター行きに乗って途中で降りて歩くことにした。

 

バスに乗ったら雨が降り出した。ニュータウンの住宅街の中を北へ向かうと、墳丘らしき木立が見えてきた。

 

墳丘を道路の向かい側から。

 

墳丘の前はニュータウンを貫く幅広の道路。

 

牧野(ばくや)史跡公園として整備されていた。

 

石室入口へ続く階段。

 

上がっていくと解説板があった。

史跡 牧野古墳 昭和32年6月19日指定

丘陵の南斜面に築かれた円墳で、径約55m、高さ13m、南面に横穴式石室が開口している。石室は巨大な花崗岩を使用して構築している。羨道は長さ10m、高さ2.0m、幅約1.8m、玄室は長さ7.0m、幅3.3m、高さ4.5mに及ぶ。玄室内には刳抜家形石棺があり、また組合石棺もあったが、完全に破壊されていた。石室内は盗掘されていたが金銅製の馬具、武器、装身具、土器等の副葬品が多量に残されていた。当古墳は馬見丘陵では数少ない横穴式石室を有する古墳として重要であるばかりでなく、県下でも最大級の巨大な横穴式石室として学術上きわめて貴重な古墳である。なお、古墳の被葬者は敏達天皇(538~585、即位572~585)の皇子、押坂彦人大兄王であろうとする説がある。広陵町教育委員会

 

 石室部分のアップ。

 

石室入口。この時点では鍵がかかっていた。

 

石室内部の見学は広陵町文化財保存課に事前に申込む必要がある。

史跡牧野古墳の石室内見学申し込みについて | 広陵町

この日は午前10時に申し込んだので、この時点(9時半)でまだ時間があった。

 

まずは墳丘に上がらせていただいた。

 

樹木が茂っていて墳丘からの眺めはなかった。

 

尾根から続いていると思われる部分もあるが円墳なのでどの方向を見てもあまり変わらない。

 

石室の真上に出た。

 

墳丘から続く丘へ。

 

周囲を見渡せる場所があった。天候は風雨。

 

奥には二上山。

 

上記の場所から見た振り返ると、牧野古墳の墳丘。

 

墳丘の北側には遊具もあった。

 

ちょっと使われていない雰囲気。

 

埴輪的な馬も。

 

ベンチのように石棺の底石があった。

 

伝 文代山古墳石棺。古墳は一辺48mの大型方墳で別の場所に現存する。

 

下記の底の部分。

 

形はきれいに残っている。

 

一回りして石室前に戻ってきたら門が開いていた。

 

見学用に掛けられた数段の梯子を降りて中へ。左右の壁、天井の石の大きさに圧倒される。

 

玄室手前の天井石。

 

玄室に残った石棺には卒塔婆が立てかけられていた。

 

床から天井までの高さがある側壁の巨石。

 

後ろを振り返って。

 

玄室の天井高は4.5mもある。石舞台の4.8mに近い。

 

観光 古墳 | 広陵町公式サイトの解説より。

丘陵の奥部にある直径約60mの大型円墳で、墳丘は三段築成で造られ、二段目に横穴式石室が開口している。玄室の長さ6.7m、幅3.3m、高さ4.5m、羨道の長さ10.4m、幅1.8mで、全長17.1mを測る大型石室である。玄室内には奥壁に沿って横向きに刳抜式の家形石棺が安置され、その手前には組合せ式の家形石棺が置かれていたと考えられている。

石棺は、ともに大部分が破壊されていたが副葬品は意外に多く残されていた。装身具類は金環と各種の玉~金銅製山梔玉(くちなしだま)・ガラス小玉・粟玉(あわだま)が、馬具は木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)や、縁金具のある障泥(あおり)、心葉形の鏡板と杏葉等が二組分出土してる。武器は、銀装の大刀と400本近い鉄鏃があり、羨道に集中していた容器類のなかには、木心の金銅張容器と総数58点の須恵器があった。

古墳時代後期末葉の古墳で、舒明天皇の父にあたる押坂彦人大兄皇子(おしさかひこひとおおえのおうじ)の成相墓(なりあいばか)の可能性がある。

 

玄門の上の巨大な「岩」

 

玄室側壁の石。同じような写真を何枚も撮っていた。

 

石棺の裏側。

 

10分に満たない時間だったが充分に堪能させていただきました。係りの方にお会いできなかったので御礼を言えませんでした。こんな場でなんですが、誠にありがとうございました。

外の雨は止んでいたので、予定通りに馬見丘陵公園まで歩くことにした。

つづく。