墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

行燈山古墳(崇神天皇陵) 奈良県天理市柳本町

前回のつづき。

櫛山古墳の見学の次は、その尾根続きのすぐ西に隣り合う行燈山(あんどんやま)古墳へ。

 

説明板の前で解説を受けた。

行燈山古墳 (古墳時代前期)

行燈山古墳天理市柳本町に所在し、龍王山から西に延びる尾根の一つを利用して築かれた前方後円墳です。現在は「崇神天皇陵」として宮内庁により管理され、アンド山古墳・南アンド山古墳を含む周辺の4基が陪塚に指定されています。

墳丘は全長242m、後円部径158m、前方部幅約100mを測り、前方部を北西に向けています。柳本古墳群では渋谷向谷古墳景行天皇陵)に次ぐ大きさです。

墳丘は後円部、前方部ともに3段築成です。周濠は3ヶ所の渡り堤によって区切られ、前方部側は高い外堤によって囲まれていいますが、現在の状況は江戸時代末の柳本藩がおおなった修陵事業によるもので、古墳築造当時の姿とは異なるものになっています。

周濠の護岸工事に先立つ宮内庁書陵部による調査では、円筒埴輪、土器が出土しました。また、江戸時代末の修陵の際に、後円部周濠の南東くびれ部から銅板が出土したと伝えられます。残されている拓本によると、片面には内行花文鏡が、もう一方の面には田の字形の文様が表現されています。

行燈山古墳の築造時期については、埴輪の特徴や銅板の存在から古墳時代前期後半(4世紀中葉)と想定されています。柳本古墳群の盟主墳として、続けて築造された渋谷向谷古墳景行天皇陵)とともに重要な古墳です。平成23(2011)3月 天理市教育委員会

 

上記説明板の写真部分のアップ。

中央が行燈山古墳。前方部側の周濠は江戸期にため池として拡張されている。

右に櫛山古墳、左に陪塚と治定されるアンド山古墳と南アンド山古墳が連なる。

 

後円部と周濠を南側から。

 

深い森と深そうな濠。

 

後円部の中程と周堤をつなぐ「渡り土堤」 

築造当初からあったと推定されているようだ。行燈山古墳 - Wikipedia

 

渡り堤の東側は大きな後円部。右奥に櫛山古墳がある。

 

同じ位置から西側の前方部方向。ずいぶん水位が異なる。

 

古墳の大きさをたっぷり味わえる気持ちの良い道があった。

 

くびれ部のあたり。

 

周堤の出水溝から。

 

前方部の先、広くなっている「元」周濠。

遥拝所の右奥に丸く見えているのが西殿塚古墳か。ここから1.2km。

 

前方部右裾からの行燈山古墳。全長は箸墓古墳(278m)に比較すると30mほど短いが、大きな周濠や周堤があることや斜面に位置することから、こちらの方が大きいように感じた。

 

堤上で、来た方向を振り返って。正面奥は龍王山、右にはなだらかな三輪山

 

堤上から南側に600mほどのところにも大きな墳丘がある。

 

墳丘は渋谷向山古墳(しぶたにむこうやま:景行天皇陵)

全長は310mに達する、全国第8位の規模の古墳。左が後円部。

今回は遠望のみ。

 

グーグルアースで。行燈山古墳崇神天皇陵)が右下を向いているのに対し、渋谷向山古墳景行天皇陵)は右上を向いている。

 

前方部の堤の端。その先の小山も墳丘だった。

 

形のきれいな南アンド山古墳。全長65mの前方後円墳

行燈山古墳と同時期の古墳と考えられていて、宮内庁により崇神天皇陵陪塚に治定されている。

 

前方部からくびれ部、後円部。セクシーな感じ。

 

上記の反対側、右側面。手前が前方部、奥が後円部。

 

その先に行くと行燈山古墳崇神天皇陵の遥拝所があった。

左はアンド山古墳の前方部先端。

 

その位置からは木が茂っていて古墳の全容はわからなかった。

 

国道169号から見たアンド山古墳の後円部。

アンド山古墳は全長120mの前方後円墳。こちらも宮内庁により崇神天皇陵陪塚に治定され、行燈山古墳と同時期の築造と考えられている。

墳丘上で板石が採集されており、埋蔵主体は竪穴式石室の可能性があるそうだ。

 

その左を向くと柳本のバス停。バスを待ちながら古墳を眺められる。

 

同じ位置で振り返って南側を見ると、縦に割った東半分が国道で削られた大和天神山古墳(やまとてんじんやま)

 

行燈山古墳の周堤上から見た大和天神山古墳。全長は113m。

左が前方部、右が後円部だが、断面図を見ている形になる。

 

工事時の調査で、後円部で長さ6.1mの竪穴式石室を発掘したが埋葬形跡はなく、崇神天皇陵の遺物のみを埋納した陪塚とも考えられているとのこと。

石室内にあった木櫃には約41kgもの水銀朱が残り、水銀朱を取り囲むように20面、さらに木櫃の外側でも3面の銅鏡を検出した(重文・奈良国立博物館所蔵)

築造は古墳時代前期の4世紀後半頃とされるが、これらの鏡は前期古墳によくみられる典型的な三角縁神獣鏡を含まず、後漢時代の方格規矩鏡や内行花文鏡などを主体とする特異な組合せを示すとのこと。

上記は次のサイトを参考にしました。

大和天神山古墳 - Wikipedia

重要文化財|奈良県天神山古墳出土品|奈良国立博物館

 

発掘調査は墳丘を破壊することにもなりますが、多くの発見がある場合があるのだなあと感じました。「発見はある」が「元通りにはできない」とも言えるので、調査で得られた情報は何を意味するのかが気になりますが(墳丘自体が消滅するとそれこそ取り返しがつきません)

このあとバスへ戻って、発掘中の現場へと向いました。

つづく。