前回のつづき。
ホケノ山古墳(左)を訪ねた後、箸墓古墳(右)との間に見えた堂ノ後古墳(中央)へ向った。
案内表示はないが、畦道を進んでみる。
墳丘に接する道に出た。奥はホケノ山古墳。
回り込んでいくと上り口があった。
笹に埋もれるように説明板もあった。
堂ノ後古墳
纏向地域から南の茅原の地域にかけての丘陵部には、有名な珠城山古墳群や箸墓古墳、茅原大墓古墳などがあるが、この地域にはほかに20数基の中・小規模の古墳が散在している。数基の方墳のほかは古墳時代後期の円墳と見られ、中には前方後円形を呈するものもいくつかあるようだ。堂ノ後古墳もこれらの古墳群の中の一つで、調査が行われていないため詳細は不明だが、径35m程度の円墳のようだ。桜井市教育委員会
検索していたら興味深い記事があった(2009年12月)
2005年に天理大の学生が堂ノ山古墳をレーダー探査し、同古墳が「直径35mの円墳」より大きい全長63m以上の前方後円墳であることや、周濠跡の重なり方からホケノ山古墳より古い可能性もあるとしていたが、桜井市教育委員会による2009年6~7月での堂ノ後古墳の前方部の発掘調査では5世紀後半の円筒埴輪や須恵器の破片などが見つかり、ホケノ山古墳より200年以上新しいことが分かった、というもの。
桜井市教育委員会は前方後円墳であったことには「一定の評価ができる」としたようだが、現地の説明板は今も円墳のままだった。
堂ノ後古墳の墳丘から箸墓古墳。
ちょうどJR桜井線の、30分に一本の電車が通っていった。
真後ろは草むらで。
その先にホケノ山古墳がある。
築造年代では、ホケノ山古墳(3世紀中頃)→箸墓古墳(3世紀後半)→堂ノ後古墳(5世紀後半)となる。
堂ノ後古墳の被葬者は2つの古墳の間に入りたい、と思ったのだろう。
ホケノ山古墳南西側ため池の横を通ってもとの道に戻った。
再び村社・国津神社のそばを通る。
昔と変わらない風景では。
こちらのお宅も素晴らしい。
塀の瓦に大黒さまがいらした。
もう一度、箸墓古墳のくびれ部横の道をちらりと見た。陽が上がって緑が濃くなっていた。
後円部の裾と民家の間の標石。大市墓とあった。
山の辺の道を巻向駅へ。自転車なら奈良公園まで1~2時間か。
錆びが板塀のようになっている建物があった。
つづく。