前回のつづき。
下記は飛鳥駅へ向う際、岡寺駅直前で近鉄電車の車窓から見えた丸山古墳。
左が前方部、右が後円部で、後円部を南に向けている。
飛鳥で3つの古墳を見た後に岡寺駅に戻り、住宅の間から見える木立を目指した。
なかなか入口がわからず周囲を廻る。
くびれ部へ上がる道があった。
草が刈られて歩きやすい。
説明板もあった。
奈良県最大・国内第6位の310mの墳丘を持つ。石室長28.4mは国内最大。
国史跡 丸山古墳 昭和44年5月23日指定
本古墳は全国で6番目、奈良県下では最大の規模をもつ前方後円墳です。後円部の一部は、陵墓参考地として宮内庁で管理されています。墳丘・周濠の大部分は、国の史跡に指定されています。古墳の規模は全長約310m、後円部径約150m、前方部幅約210m、周濠を含めると約460mを測る大型の前方後円墳です。当初この古墳は、円墳と考えられていましたが、航空写真等により周庭帯をもつ巨大な前方後円墳であることが判明しました。
墳丘は、南東から北西に延びる丘陵を利用し、削り出しと盛土により形成されたと考えられています。後円部には、両袖式の横穴式石室が南側に開口しています。石室は、土砂の流入により正確な規模は不明ですが、現状でおおよそ全長28.4m、玄室長8.3m、羨道長20.1mあり、日本最大の規模を誇ります。石室の中で羨道の占める割合が他の古墳の石室と比較して長いのも特徴のひとつです。玄室内には、二基の刳抜式家形石棺が安置されており、奥棺と前棺が逆L字状に配置されています。棺蓋の縄掛突起などの形態から石室入口寄りに安置されている方が古く、奥壁寄りの方が新しいと考えられています。また、石棺の石材は、両者とも兵庫県加古川付近で採集された竜山石を利用しています。古墳の築造時期は、6世紀後半頃と考えられており、被葬者には欽明天皇・蘇我稲目など天皇クラスの人物が有力視されています。橿原市教育委員会
前方部の裾は段々になっていた。
振り返って墳丘の北西方向。前の道路は周壕を斜めに横切っていた。
ここが周壕の底面だろうが、奥の家並みの屋根くらいの高さはあった。
前方部をゆっくり上る。くびれ部から裾方向。
くびれ部から後円部方向。
後円部の段々は、仙台の雷神山古墳を思い起こした。
平坦で”だだっ広い”印象の前方部墳頂。
かつて後円部部分だけの円墳と思われていたことも頷ける。
前方部上から後円部。
一段上ると宮内庁の札があった。
後円部上だけが柵で囲われている。
後円部から前方部東側斜面。前方部は先端に向けて裾が広がる形。右奥は耳成山。
前方部の延長線上には畝傍山がある。
後円部東側。この方向に飛鳥板蓋宮跡や川原寺、岡寺がある。
柵に沿って後円部を廻る。
柵の内側。
後円部南側に鍵のかかった入口があった。
そばには写真入りの説明板も。
こちらの飛鳥広域行政事務組合には音声解説もあり、現地解説板と2次元バーコードで連携していた。
こちらの「かしはら探訪ナビ」にも解説がある。
前方部にあった説明板の内容とかなり重なるが付加情報もあるので下記に。
国指定史跡 丸山古墳 昭和44年5月23日指定
古墳時代後期(6世紀後半頃)に築かれた巨大な前方後円墳です。その全長は奈良県下で最大、国内でも6番目の規模を誇ります。
墳丘と周壕の大部分が国の史跡に指定されているとともに、後円部頂上の木々が茂っている場所は陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)となっています。五条野町・大軽町そして見瀬町に亘る丘を削ったり、土を盛り上げて造ったと考えられています。後円部上には南に開く横穴式石室があり、その全長は石舞台古墳(奈良県明日香村)よりも約9m長く日本最大の規模です。また、他の古墳と比べて丸山古墳の羨道は、玄室に対して非常に長く造られていることも特徴の一つです。
玄室内には2基の刳抜式家型石棺があり、奥にある石棺と手前にある石棺が逆L字形に配置されています。石棺の蓋にある縄掛突起の形などから手前に置かれている石棺が古く、奥の石棺が新しいと考えられています。また、両石棺の石材は兵庫県の加古川付近で採られた竜山石(凝灰岩)を利用しています。
丸山古墳に葬られた人は、欽明天皇や蘇我稲目など当時の我が国を治めた人物が有力視されています。橿原市教育委員会
宮内庁の筆文字の立て札もあった。
この先に石室の入口があるのだろうがわからなかった。
2年前に明治大学博物館の「ウィリアム・ガウランドと明治期の古墳研究」展で写真資料を見て以来、気になっていた丸山古墳。
「ウィリアム・ガウランドと明治期の古墳研究」 明治大学博物館特別展示室 @御茶ノ水 - 墳丘からの眺め
群馬県高崎市でも15mクラスの石室を体験できるが、その倍近くの長さになる。
国指定史跡 観音塚古墳 群馬県高崎市八幡町 - 墳丘からの眺め
後円部の説明板の側にも墳丘への入口。
そのままぐるっと一周した。
今度は前方部の先端まで歩いた。全長が300mを超えるサイズの墳丘に上がるのは初めての体験だった。大きい!
グーグルアースでも南東を向く前方後円墳の形がわかる。
前方部の先端には石塔が。
前方部の一方の端は少し削られていた。
前方部の先端から墳丘の下へ。
かなりの標高差で斜面は急だった。
途中にお寺の入口があった。
延命地蔵にお参り。
さらに下がったこの場所が周壕の位置か。
周壕の外から墳丘を見るために細道を下る。
前方部左裾から後円部方向。
その左裾のアップ。
周濠の名残り?のため池。
上記の位置から後円部(右の木立) 正面が周濠。
墳丘の東側からのパノラマ。左が後円部、右が前方部。
このあたりで雨が降り出したが、道沿いにあった案内図に記載されたもう一つの古墳(植山古墳)にも惹かれるものがあった。下部の中央の写真に石室が写っている。
雨風になってきて厳しい状況になってきたが、案内表示に従っていくと大きな墳丘があった。しかしなんと整備工事中。
囲いの先には「国史跡 植山古墳」の標柱も見えた。
下記のサイトには新品のような石棺蓋の写真がある。整備工事が終わるのは平成31年(!)だった。であれば案内図にも・・・
とぼとぼと岡寺駅へ戻る。住宅の後ろがおそらく植山古墳の墳丘。
雨が降っていたとはいえ誰にも会わなかった。
側溝沿いの蛍光表示はよいアイデアだと思った。
古そうな土壁も。
丸山古墳の後円部の下に出た。
道は、後円部の外堤に沿ったようにカーブしていた。
岡寺駅着。屋根のあるところに戻ってほっと一息。
本日の宿泊地、天理に着いた。
終着駅の雰囲気。
宿は素泊まりなので駅前で店を探したが、すぐには見当たらなかった。
つづく。