墳丘からの眺め

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特別史跡・石舞台古墳 奈良県高市郡明日香村島庄

前回のつづき。

畝傍御陵前駅から飛鳥駅までは近鉄で4駅目。

飛鳥駅から石舞台古墳までは歩くとちょっと遠い3.3km。バスの時間が合わなかったのでタクシーを利用。車でも10分ほどかかった。

入場料は一般250円。

一旦周溝を降りて墳丘基壇へ。

 

巨大な石塊があった。

 

逆側から。どちらの石も大きかった。

 

教育委員会による説明板。

 

特別史跡 石舞台古墳

明日香村島庄 昭和27年3月27日指定

この古墳は、封土(もりつち)の上部がなくなり、玄室の天井石と側壁の上方が露出していて、天井石が平たいので、古くから石舞台古墳の名で親しまれている。

古墳は、昭和8年、10年に京都大学と奈良県が共同で発掘調査を行った。

玄室の長さは、約7.6m、幅約3.5m、羨道の長さは約11.5m、幅約2.2mで玄室底部から羨道中央部を南に通る排水溝がある。

現在封土基部は方形で、外斜面に自然石の貼石がある。一辺の長さは約55m、その外方の隍(からぼり)の幅は隍底で約6ないし7.6m で、北方の幅は約6.5mである。その外側に上幅約5mの外堤があり、内外斜面にも下方部と同じく貼石をする。封土は、方形・上円下方形とも考えられているが、現在なおはっきりしないが、巨大な石材を架構した雄大さは、日本古墳の中でも群を抜いた後期古墳である。

昭和53年3月 奈良県教育委員会

 

国営飛鳥歴史公園の公式サイトにも詳しい情報がある。石「舞台」の名の由来となった天井石は77トン、石棺を構成する石の数は30数個で総重量は2300トンにもなること、築造は7世紀初頭で当時の権力者である蘇我馬子(大化の改新で滅ぼされた蘇我入鹿の祖父)の墓との説を紹介している。

国営飛鳥歴史公園

 

77トンとは。現代なら80トン積める特殊トレーラーもあるが重機がない時代には運ぶのもセットするもの大変。

最大積載量80tトレーラー-日運建業株式会社

 

てこやころを活用したようだが(説明板右下の絵)

 

基壇から少し降りたところに玄室入口がある。中央は排水溝。

 

中で説明を受けている方々がいた。

 

空間の大きさにも驚くが、それが巨石の組み合せであることに圧倒される。

石というより岩だった。

 

天井を構成する2個。

 

玄室の高さは4.8m。頭上に3mほどの空間がある。

 

奥壁も2つの岩で構成されていた。

 

奥壁から入口方向。

 

もとはこの先も羨道というトンネルが11.5m続いていた。

 

側壁の岩もひとつづつが大きい。

 

石舞台古墳 - Wikipediaでは、墳丘の封土が剥がされて墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説も紹介している。

そこには石舞台古墳の築造時期は7世紀初頭とあったが、蘇我馬子は551年頃に生まれ、626年に没している。

 

以前に東博で見たタブレット端末での映像も現地で見てみたかった。

キトラ古墳壁画(@上野) - 墳丘からの眺め

 

外堤から石室入口。

 

堤の一画に復元石棺が置かれていた。

 

その説明板。

石舞台古墳の復元古墳

この石舞台古墳は、昭和8年の発掘調査で30数個の大きな石で築造された大規模な古墳で、6世紀末期から7世紀初頭のものであることがわかりました。

古墳形状は上円下方墳と推定されます。

被葬者は、古代この地で最大の勢力を誇っていた大豪族の蘇我馬子の桃原墓(日本書紀第22 推古天皇34年 626年「大臣‥桃原墓に葬る」)であるとの説が最も有力視されています。

古墳の規模は、下方形墳(外隍)一辺が85m、玄室の長さ7.7m、幅3.4m、高さ4.8mで玄室南側の天井石は、約77tと推定されます。

この発掘調査では、石棺は発見できませんでしたが、石室からは平らに加工した凝灰岩の破片が見つかりました。

このような発掘調査の成果と、飛鳥時代の古墳に施されている石棺の資料を基にして石舞台古墳の石棺を復元致しました。財団法人 明日香村観光開発公社

 

方墳らしさがわかる外堤の角から。北側以外は山に囲まれたような場所になる。右奥(南)に都塚古墳がある。

 

北側に開けた場所で、下がったところは芝生公園になっていた。

 

このあたり一帯は蘇我馬子の邸宅であったといわれる島庄遺跡。日本書紀の「(馬子は)飛鳥川のかたわらに家を建て、庭の中に池を開き、池の中に小島を造ったので、人々は島の大臣(おおおみ)と呼んだ」の内容を裏付ける遺構が見つかってきている。

蘇我馬子邸、権勢示す 明日香の島庄遺跡で塀跡出土(1/2ページ) - 産経WEST

 

こちらは石舞台の北側、「方形池」があったあたり。

 

石舞台の案内所で飛鳥駅行きの15:30発でバスの時間を見ていたが時間になってもなかなか来ない。よくみたら2月にはない便で次は16時発。この日に見たい場所がまだ数ヶ所あったので帰りもタクシーを呼ぶことに。

 

運転手さんは行きと同じ方だった。古墳にも詳しく、道沿いの野口大墓古墳(天武・持統天皇陵)を教えていただいた。車を止めていただいて遠望。

 

一辺16mの八角墳で7世紀後半の築造。被葬者が特定できる希少な古墳。

持統天皇により火葬、薄葬が広がって古墳の時代は終わりにむかった。

つづく。