墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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言問橋 待乳山聖天 山谷堀 東京都台東区浅草・東浅草

前々回のつづき。

まだ時間があったので、たばこと塩の博物館で見た浮世絵に描かれていた待乳山(まっちやま)へ行ってみることにした。

たばこと塩の博物館 「隅田川をめぐる文化と産業 浮世絵と写真でみる江戸・東京」展 @東京都墨田区横川 - 墳丘からの眺め

 

言問橋(ことといばし)を渡る。

 

穏やかな隅田川(上流方向)

対岸の待乳山方向の写真を撮りそびれていた。

 

言問橋の対岸から。

橋名の由来は言問橋 - Wikipediaによれば以下のよう。

「言問」という名称は在原業平の詠んだ、

「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」

という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。

有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。

 

橋を渡った先の交差点にあった大きな案内板。

聖天町(しょうてんちょう:現在の浅草6・7丁目)

本町の起立年代は不詳だが、寛文図に「聖天丁」と記載されている。名勝は江戸時代から文人墨客に愛された景勝の地・待乳山にある聖天宮にちなんだもの。「浅草聖天町」およびその西側に「浅草聖天横町」があったが、昭和41年に現在の地名に変更となった。この聖天町は皮革商の発祥の地であり革の郷として知られている。昭和25年に皮革の統制が撤廃され一挙に革靴の生産が盛んになり、この地帯は皮革商社が50軒くらい存在し、とても盛んな商店街であった。

 

 

たまたま年季の入った建物を撮っておいたらこちらも「製靴」の看板だった。

 

かつての日光街道を北へ進み、最初の信号を右折すると目指す待乳山聖天(まっちやましょうでん)があった。

 

石段を上がると、さらに上に社殿がある。前方部から後円部を見ているような気になる。ここを古墳と推定されているサイトもあるが、遺物は出ておらず台東区の遺跡地図にも載っていないようだ。

ただ、ここから南西に500mほどの浅草寺本堂裏にあった塚からは石棺が出ている。

台東区伝法院所在石棺 » 埼群古墳館

想像を膨らませる分には楽しい。

 

拝殿内に上がって参拝することができる。階段下の社務所で大根を買ってお供えするシステムがあった。

 

説明板。

待乳山聖天 台東区浅草7-4-1 本龍院

待乳山聖天は、金龍山浅草寺の支院で正しくは、待乳山本龍院という。その創建は縁起によれば、推古天皇9年(601)夏、旱魃のため人々が苦しみ喘いでいたとき、十一面観音が大聖尊歓喜天に化身してこの地に姿を現し、人々を救ったため「聖天さま」として祀ったといわれる。

ここは隅田川に臨み、かつての竹屋の渡しにほど近い小丘で、江戸時代には東部随一の眺望の名所と称され、多くの浮世絵や詩歌などの題材ともなっている。とくに、江戸初期の歌人戸田茂睡の作、

 哀れとは夕越えて行く人を見よ 待乳の山に残す言の葉

の歌は著名で、境内にはその歌碑(昭和30年再建)のほか、石造出世観音立像、トーキー渡米の碑、浪曲双輪塔などが現存する。また、境内各所にほどこされた大根・巾着の意匠は当寺の御利益を示すもので、大根は健康で一家和合、巾着は商売繁盛を表すという。1月7日の大般若講大根祭には多くの信者で賑う。

なお、震災・戦災により、本堂などの建築物は焼失、現在の本堂は昭和36年に再建されたものである。平成11年3月 台東区教育委員会

 

 社殿横からの眺め。結構高さがある。

 

そこにはなんとケーブルカーもついていた。

 

拝殿から参道方向。

 

境内には江戸時代の名残りをとどめる築地塀もあった。

 

斜面に沿ってつづく。

 

池波正太郎の生家は待乳山公園の南側(浅草7-3付近)にあったそう。

 

敷地の西側から見上げる待乳山。

 

待乳山の北には立派な親柱が残っていた。

 

北西側に川跡が続いていた。

 

埋め立てられた川跡の遊歩道。桜並木があった。

 

山谷堀(さんやぼり)という、江戸期に吉原へ向うルートだった。

山谷堀公園

山谷堀がいつ頃掘られたかははっきりしないが江戸の遊里吉原との関係からみてもおそらく江戸初期にできたものであろう。

都下水道局ポンプ場のところから隅田川へと注ぐ約700mにおよぶ山谷堀は、帰宅の音無川を源とし、飛鳥山の北側、王子権現の下を経て通じていた。

当時、この堀は、吉原への通路の一つであった。山谷堀を通るので吉原通いを別名、山谷通いともいった。猪牙船などを仕立ててこのコースを通う遊興はぜいたくとされ、まさに“おだいじん”遊びだった。

堀の上流から日本堤橋、地方橋、地方新橋、紙洗橋、山谷堀橋、正法寺橋、吉野橋、聖天橋、今戸橋と九つの橋がかけられていたが、埋立に伴いすべて取り除かれており、橋台のみが昔の面影を残している。

現在は、水と緑の憩いの公園として整備されている。

 

堀に面した潮江院というお寺。

 

横切る道路は橋の名残りの高さ。

 

ゆるくカーブしながら掘跡がつづく。

 

親柱は結構残っていた。

 

桜が咲いたら再訪したい。

 

川跡がなくなるあたり。

 

「地方橋」の信号のあたりにあった日本堤ポンプ場。

山谷堀に誘われて予定外で来たものの、現地で吉原跡はわからないままになってしまった。再訪せよとのことでしょう。

三ノ輪行きのバスがちょうど通りかかったので乗ってしまいました。