墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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清土鬼子母神 吹上稲荷神社 国史跡・先儒墓地 開運坂 東京都文京区目白台・大塚

前回のつづき。

日本女子大・成瀬記念館の前だけ見たあと、キャンパスの東縁の細道を雑司ヶ谷の方へ向かった。

不忍通りに出ると、道の向かいにお屋敷があった。

 

犬のシールが20枚以上。

 

屋根瓦の逆立ち獅子?が見事。

 

塀の前にあった文京区の旧町名看板。現在、雑司ヶ谷の地名は隣り合う豊島区のほうに残っている。

 

横にあった現在の地図。

あとで調べたら、このお屋敷の北側に以前伺った料亭「寛」があった。

個室料亭 雑司が谷 寛(かん) - 墳丘からの眺め

 

お屋敷の並びの看板建築。

 

北東方向に下っていく不忍通りに対して南側の枝道は上り坂になっていた。

 

通りの北側の小道を下った先にお社が。 清土鬼子母神。

 

雑司が谷案内マップ・おすすめ散策コース|雑司が谷 案内処には、下記の説明がある。

入口門前に「鬼子母尊神出現所」と刻まれた石標があり、永禄4年(1561)、柳下若狭守の下男山本丹右衛門が、清土の田から鬼子母神像を掘り出したと伝えられています。境内には、池水に星影が不思議な光を宿して尊像の存在を知らせたと言われる星跡の清水(三角井戸)や、「此道に出て涼しさよ松の月」と刻まれた芭蕉の句碑「涼月塚」、「安政の名のみ残りてうつし絵の花に香もなく鳥に音もなし」と詠んだ歌碑があります。

上記サイトのマップにもあるが、豊島区雑司ヶ谷の鬼子母神は規模が大きかった。

法明寺 鬼子母神 東京都豊島区雑司ヶ谷 - 墳丘からの眺め

 

奥に下がっているものの、手前と左右から低くなっていて擂り鉢池のような雰囲気。 

 

本殿は石造りの蔵の仕様だった。

 

本殿裏には巨木が並び立つ。

 

こちらの吉祥天の左に三角形の井戸があったが撮りのがしてしまった。

 

境内の脇の小道。左の崖は結構な高さ。

 

上記の位置から背面側。奥が不忍通り方向。

 

不忍通りから神社へ降りる坂。かつては対岸の坂とも連続していたと思われる。

 

不忍通りを護国寺の方へ。途中の鋭角二又路にあった見ごたえある建物。

 

護国寺西の広い交差点で歩道橋から。片側6車線!

 

交差点の左側斜面は墓地だった。

 

そのまま護国寺前を通り過ぎて富士見坂の手前を豊島岡墓地に沿って左折。

 

その先に魅力的な細い路地があった。路地に入って振り返ったところ。

 

その先には趣のある木造家屋があった。

 

朽ち始めているもののなんとか立っている家屋と元気な梅の木。

 

その先には神社があった。

 

元は江戸城吹上御殿にあった。

 

境内のバックには豊島岡墓地になる。

 

参拝後、境内から北へ続く小道を進むと、左手に気になる標石が現れた。

 

入口には鍵がかかっている。

 

さきほどの吹上稲荷で申し出れば見学できるとのことだった。

 

鍵は借りることができた。

 

国指定史跡 大塚先儒墓所

 

 風化しそうな説明板。

大塚先儒墓所 史跡

寛永(1624~43)の頃、徳川二代将軍秀忠、水戸藩祖頼房の儒師人見道生の邸址で寛文10年(1670)道生の死後、その遺骸を邸内に葬ったのが起こりだといいます。

都下における儒教関係の史跡として他に比類ない所です。

 

かなりの数の儒者が眠っている。

 

静かな場所だった。

 

桜の木もあった。

 

奥に吹上神社の屋根があった。

 

ここに来たのは、下記の散歩マップがきっかけ。

先月、文京区シビックセンターで展示されていたもの(の部分)

上記の中央にある煉瓦建物に惹かれるものがあった。 

 

まずは開運坂へ。

 

坂下にあった文京区の旧町名案内。

 

隣にあった現在の地図。

 

散歩マップによればこの通り沿いにあるはずだが、何度か往復しても、裏道を通っても、交番で聞いてもわからなかった。

 

新築のマンションがあったので、一応撮ってみた。

 

あとでストリートビューで見てみると、まさに明治30年頃に造られた煉瓦蔵が存在した場所だった。

拡大画面にして左上の時間を2009年にすると煉瓦蔵が現れます(追記:現在は2013年までしか遡れません)