墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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永青文庫美術館 東京都文京区目白台

前回のつづき。

新江戸川公園から永青文庫へは園路の階段で連絡している。

 

全体が大きな蔵のような造りの永青文庫。

 

以下は公式サイト、 永青文庫美術館より。

永青文庫は、今は遠き武蔵野の面影を止める目白台の一画に、江戸時代から戦後にかけて所在した広大な細川家の屋敷跡の一隅にあります。

細川家は室町幕府三管領の一つとして武門の誉高い家柄で、現在の細川家は藤孝(幽斎)を初代として戦国時代に始まります。武人藤孝は優れた歌人・国文学者として、また、信長の雑賀征伐に弱冠15歳で初陣し先駆けの功に輝いた忠興(三斎)は千利休の高弟の一人としても名高く、その室・明智光秀の娘玉は波乱の戦国時代を清冽に生きた武将の妻として、キリスト者としてガラシャの洗礼名で知られています。代々文武両道にすぐれた細川家は、多くの戦功を挙げて、3代忠利のとき肥後熊本五十四万石を与えられ、強力な外様大名として幕末に至りました。

この家に伝来する歴史資料や美術品等の文化財を管理保存・研究し、一般に公開しているのが永青文庫です。ここには欧州貴族にも優る七百年余の細川家の伝統が静かに息づいています。昭和25年、斯界に著名な侯爵16代護立公によって、細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐ目的で財団法人として設立されました。その名称は藤孝の養家の始祖細川頼有以後8代の菩提寺である京都建仁寺塔頭永源庵の「永」と藤孝の居城青龍寺城の「青」の二字をとって護立公が名付けたものです。細川家の伝統を継承し、護り、誇りとするに相応しい名称と言えましょう。

昭和47年から一般公開を始め、翌48年に博物館法による登録博物館となり現在に至っています。因に現在の建物は旧細川侯爵家の家政所(事務所)として昭和初期に建設されたものです。所蔵品は護立公と17代護貞氏から寄付を受けたものであり、毎年4つの会期にわけて 美術工芸品を中心に公開展示し、熊本県立美術館にても年数回にわたり展示しています。

 

現在は冬季展として「狂言を悦しむ(たのしむ)」を2月21日まで開催中、一般800円。

表情豊かな狂言の面や意匠に優れる意匠など「親しみの中にも品格、知性、美しさを備える狂言の世界」を垣間見ることができた。

永青文庫美術館

 

昨年夏に来たときは休館中だった。

関口芭蕉庵 水神社 胸突坂 永青文庫(門前のみ) 東京都文京区関口・目白台 - 墳丘からの眺め

 

春画展では80数日間で20万人を動員した。同展は2/6から京都の細見美術館で開催中。

東京都・永青文庫「春画展」の来場者が20万人を突破- 来年2月からは京都へ | マイナビニュース

 

永青文庫には別館もある。

 

建物は建築家今里隆の手による昭和30年代の住宅建築。

プラス100円だが、給茶機による飲み物と小さなお菓子がいただけた。

 

別館の内部。背後に細川家の陶芸作品などが展示されているが撮影禁止だった。

セルフではあるものの、落ち着いた雰囲気でコーヒーをいただけた。木々の先、台地の下が新江戸川公園。

 

正門から外に出ると右手に胸突坂がある。

 

正面には大変豪華な日本家屋。

 

木立の先にも大きな破風が見える。

 

門は固く閉ざされていた。

 

門柱の字はちょっと読めなかった。

 

が、目白通りの看板で「蕉雨園」と知った。

こちらの方のブログにより、旧田中光顕邸とわかった。田中光顕 - Wikipedia(1843~1939)は土佐藩士・明治の元勲。

関口芭蕉庵、胸突坂、永青文庫、旧田中光顕邸(蕉雨園)、和敬塾へ 柴犬こちゃの幕末・維新史跡探索ノート/ウェブリブログ

 

蕉雨園の向かいの建物。講談社野間記念館の敷地か。

 

向かいには和敬塾の門があった。

敷地内には昭和11年竣工、チューダーゴシック様式の洋館・旧細川公爵本邸があり毎年秋に東京文化財ウィークの一環として一般公開されている。

旧細川侯爵邸(和敬塾本館)東京都指定有形文化財 @文京区目白台 - 墳丘からの眺め

このあと野間記念館へと向った。

つづく。