以前に荒川区荒川ふるさと資料館で購入した「煉瓦のある風景」(同資料館発行 2011/2/5)という企画展資料にあった、荒川遊園の煉瓦塀を見に行った。
千住製絨所跡煉瓦塀 東京都荒川区南千住6丁目 - 墳丘からの眺め
地下鉄日比谷線三ノ輪駅で降り、昭和通りと明治通りが交差する大関横丁の信号を渡り常磐線ガードをくぐると「ジョイフル三ノ輪」商店街の入口がある。
入口手前の左手に都電荒川線の三ノ輪橋駅。
レトロな雰囲気の「宝くじ号」に乗車。
最前列に座れた。
3つ目が三河島水再生センターに近い荒川2丁目駅。
重要文化財 旧三河島汚水処分場喞筒場施設(三河島水再生センター) 東京都荒川区荒川 - 墳丘からの眺め
今回はそのまま乗って、11駅目の荒川遊園地前で下車した。
駅前の案内板。あらかわ遊園までは250mほど北へ歩く。
歩く道は緑道になっていて、道に沿って運動施設が並ぶ。
道の下には隅田川からの送水管が埋設されている。
遊具前のベンチの母子の石像。子供2人はちょっと無理な姿勢か。説明板はなかった。
温水プールもある区の施設。
荒川遊園まで桜並木が続く。
入場料大人200円。ファミリーコースターや観覧車などのアトラクションもある(この日は風ですべて止まっていたが)
前照灯が1個であることから”一球さん”の愛称で親しまれた都電6000形。その最後の一両が50年の現役時代を経て、廃車される直前の姿で保存されている。
遊園地入口にあった説明板。
煉瓦工場と荒川遊園
明治・大正期、荒川(現隅田川)沿いにはいくつもの煉瓦工場があった。土が煉瓦の製造に適していたことと、船運が期待されてのことである。
旭電化跡地(東尾久7丁目)付近にあった戸田・山本煉瓦工場、華蔵院(東尾久8丁目)付近にあった鈴木煉瓦工場などである。なかでも古いのが、明治5年に石神仲衛門氏が設立した煉瓦工場だという。後の広岡煉瓦工場である。
その跡地にできた「あらかわ遊園」は、大正11年に開園した都内でも古い民営遊園地で、大小の滝・築山・池・観月橋・総檜展望台などを備え、たいへんな賑わいをみせた。太平洋戦争中は高射砲の陣地となり一時閉鎖されたが、昭和25年、区立荒川遊園として生まれ変わった。荒川区教育委員会
荒川遊園は大正11年(1922年なので94年前!)につくられた「遊園地」だったが、そこは煉瓦工場の跡地であった。
以下は冒頭の資料31頁の「広岡幾次郎」の項より引用。とても興味深い物語。
広岡幾次郎(のち改名して勘兵衛)は安政6年(1859)、広岡勘兵衛の三男として、伊賀国(現、三重県)阿山郡上野町に生まれる。家は酒造業を営んでいたが上京し、明治30年(1897)に洲崎養魚会社(現、江東区)を設立する。その際、養魚池の掘削で出土した土で煉瓦製造を行うことを考案。製品の黒煉瓦は、品質が良く価格も安いとして、鉄道院の高架鉄道用の煉瓦に指定され、一年間で約1200万個を生産したという。明治33年4月(同28年、36年とも)に、王子村大字船方(のち荒川区域に含まれる)で広岡煉瓦工場を創業。大正6年(1917)に王子煉瓦株式会社に引き継がれたのち、大正11年に工場を閉鎖し、荒川遊園に衣替えした。遊園の開設にあたっては王子煉瓦が出資し、王子電気軌道株式会社(現、都電荒川線)が関与していたといわれる。王子煉瓦株式会社取締役を務めた後、昭和7年(1932)に死去したという。
煉瓦工場は大正10年に火災で工場・社宅が全焼してしまった。が広岡はそれを機に工場敷地を閉鎖して、大正11年5月には荒川遊園へと衣替えしている。
同34頁のコラムにこうあった。
当初の遊園の経営についても、温泉のある観光地として栄えた尾久で観光客誘致を企図した王子電気軌道に譲渡されたという説と、王子電気軌道の支援のもと広岡が経営したという説があるが、その詳細はわかっていない。
ビジネスの才が溢れる方だったようだ。
上記のコラムには開園当初の絵葉書(竜宮城)も。
震災後の絵葉書には先がなくなった煉瓦塔(中央左)になっている。同コラムには「形状や色合いなど見方によっては焼成窯の煙突に見えなくもない」とあった。
煉瓦工場は平面が楕円形の「ホフマン窯」で38m×20mの規模だったそうだ。
園内には「下町都電ミニ資料館」があったので入ってみた。
明治近代建築風の立派な建物。
内部は模型の宝庫だった。
現役車両にもいろいろ種類がある。中段のレイアウトでは車両が動いている。
写真資料も豊富。
年代物のような模型も。
隣の部屋には大きなレイアウトがあった。一定時間ごとに動かすようだ。
親子連れで賑わっていた。お父さんの眼差しにも光るものが・・・
築山の上から園内。寒いのに素足を水につける元気な子。
このあとすぐに園外へ出て煉瓦塀を探した。
つづく。