墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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光取寺 清岸寺 隆崇院 宝蔵寺 常光寺 最上寺 本願寺 戒法寺 ”白金台半島”の上大崎寺町 東京都品川区上大崎1丁目

住所は品川区上大崎だが、北側の白金台から続く半島状の高台を歩いてみた。

下記の立体地図”クニャマップ”の中央部、畠山記念館の左上の3辺を谷で囲まれた四角いエリア。白金台から南に延びるので勝手に”白金台半島”と呼んでみました。

 

クニャマップについてはこちらで。

 

五反田から真北には池田山があるが、その北縁には池田山公園があり一旦谷になる。谷には品川区立第三日野小学校がある。

学校の北側の道から半島に上がる道を探したが全く見当たらず。

カーブに沿って道なりに北へ進むと左手には階段があった。

 

行きたい方向と逆なので、ここはズームしただけ。

 

右にも階段が、と思いきや民家の入口だった。

 

途中にあった板塀の家。

 

そのまま道は坂を上っていった。振り返ったところ。

 

すると右手に”半島”への階段が現れた。

 

この付近の上大崎一丁目には「増上寺子院群」が並び建つ。

江戸初期に芝周辺に創建された増上寺の塔頭で、明暦の大火後に麻布狸穴に集められていたが、そこも3代将軍家光の息子、甲府宰相綱重の屋敷とするにあたり寛文元年(1661)にこの地へ。当初は戒法寺・本願寺・最上寺・光取寺・清岸寺・正福寺・善長寺・了福寺の8ヵ寺だったが、正福寺・善長寺はその後に移転してきた常光寺・隆崇院と合併して名称を変えた。また了福寺は廃寺となり、跡に宝蔵寺(増上寺の子院ではない)が移転、さらに昭和6年(1931)に増上寺山内から月窓院が移転してきたため、増上寺子院群は現在も8ヵ寺でこれに宝蔵寺を加えた9ヵ寺が上大崎の寺町を形成している。下記の「しながわ観光協会」サイトより。

11- 詳細

 

品川区のサイト「江戸から明治の品川名所」にも記述がある。

江戸から明治の品川名所 第9回|品川区

 

最初の角には光取寺(こうしゅじ)

 

門前の道路脇には台地上にも関わらずポンプがあった。

 

光取寺の南隣は清岸寺(せいがんじ)の本堂。隣り合って月窓院がある。

 

境内案内図には全てのお墓の御名前が書かれていて、街の地図のようだった。

 

本堂から山門側。

 

境内の井戸は現役のようだ。

 

何匹かの猫に出会った。

 

境内を覆うような桜の木。

 

さらに先には隆崇院。

 

境内には桜の巨木があった。

 

延命地蔵には説明板があった。

延命地蔵大菩薩縁起

浅草の山谷にあった荘厳山一心院専念寺の第七世の照蓮社常誉観夢念瑞上人は、たいへん話術に優れ「説法弘道沙門」と称せられていましたが、享保18年(1733)10月24日に、一万回目の説法を勤めたのを記念し「説法一萬座供養」として、地蔵菩薩の造立を願って、数ヶ寺の寺院と大勢の人々の協力と寄進によって、延享4年(1747)3月19日に延命地蔵大菩薩像に魂を入れ、以来人々の信仰を集めてきました。

昭和2年(1927)隆崇院と合併するに当たり、菩薩像を当地にご転座致し、今日にいたっています。

なお、この地蔵菩薩像の台座の中に、当院にゆかりの方で、今は無縁となられた人々のご遺骨を納め、永代供養しております。

 

延命地蔵とは

おしゃかさまがこの世を去って、次に弥勒菩薩が仏になられて、この世に現れるまでの間、人々を教化し救うために遣わされましたのが、お地蔵さま(地蔵菩薩)です。

お地蔵様は、あらゆる処へいろいろに変化して姿を表すので、千体地蔵といわれますが、そのなかで延命地蔵とは、人々の命を永らえんことと、充実した生活を送ることを願いとし、また、新しく生まれる子の命を守り、短命や不幸の魔の手からふせいで下さる菩薩さまです。

 

本堂前から振り返ったところ。

 

外へ出て道を進み、曲がり角で振り返ったところ。中央右の木が隆崇院の桜。

 

道なりに左へ曲るとアップダウンの道。

 

左に見上げる隆崇院。手前はその駐車場。

 

さきに進むと宝蔵寺。

 

境内の墓地の先、南側に第三日野小学校、その向こうの丘の緑が池田山公園。「半島」の南縁に出た。

 

宝蔵寺の屋根。

 

進むと左に上り道があった。

 

はじめに右手に常光寺。

 

福澤諭吉先生永眠の地という史跡があった。

正面の記念碑は数々の名建築を残した谷口吉郎(谷口吉生の父)設計とのこと。

下記の慶應義塾のサイトには、「晩年先生は散歩を好まれ、三田を起点に良く近郊を歩かれたが、たまたま上大崎のこの地が、高台で眺望もよく、気に入られたようである」ので「存命中に、自らこの地を墓所に選定しておかれた」とある。

福澤先生墓所:[慶應義塾]

 

本堂のベランダが眺めが良さそうだったが柵があったので墓地の縁へ。

 

そこから東側の眺め。今でもよい眺望だが、福澤先生が散策した”日清戦争前後の頃”は、より風光明媚だったのではないか。

 

道の向かいには戒法寺。

 

3分咲きぐらいの白梅がきれいだった。

 

常光寺の北隣には本願寺。

 

その隣には最上寺(さいじょうじ)があった。

 

最上寺前から来た道を振り返って。

 

突き当たってもとの道へ。右の崖上が常光寺。

ここで後ろ側へ、半島を降りた。