前回のつづき。
浴室を見たあと、裏階段を上がって2階へ。
最初に見るのは雪見障子のある「予備室」
部屋の名は、建築当初に部屋の用途が未定だったことに因る。襖には雲母の型押しで松林が描かれていた。
途中廊下に沿って水屋があった。
その先に、書院造りの客間があった。安田邸で一番各式高い座敷となる。
が、床の間を撮りそびれた。
庭側、真正面には見事な枝垂れ桜がある。
開花時期は一定しないが昨年は3月20日ごろ咲いたそう。もう一度その時期に訪ねたい。
見下ろした先は応接室のある棟。
枯山水の庭園は、大正から昭和初期の、和洋折衷住宅と一体化した庭園の貴重な例として東京都の名勝に指定されている。枝垂れ桜は当初からのものではなく安田家次女の香名子さんが植えたものだが、当初の姿に一気に戻せないものは時間をかけて気長に復原していくそうだ。
縁側から付け書院。
付け書院側から畳の縁側。
書院の中は立入り禁止だが、光溢れる角部屋だった。
そこにある見事な「花狭間欄間(はなはざまらんま)」
細かくタスキ状に入れた組子、その隙間を花模様に見えるように断片板を付けている。
客間から次の間。
客間の照明。次の間のものがオリジナルでこちらは復原だが、全く同じに見えた。
客間の北側も襖を開けると一面が障子でとても明るい。
2階洗面所の灯りはロウソクの形。
床がケヤキの一枚板。
主階段から2階へ上がってすぐの欄間。桐板の透かしに大黒様の袋、打出の小槌、扇面などの模様を組み合わせて花のように表現している。
上から見下ろす主階段。
階段脇の窓ガラス。外の様子がわかるようにすりガラスの一部を透明に残している。
下から見上がる主階段。しっかりスペースがとってある。
階段を降りて長い廊下を進む(振り返ったところ)
その突き当たりが内玄関。
上の「七つ輪違い紋」は安田家の家紋。戸棚の中には提灯が収められていた。
こちらが「ショップ」にもなっていた。
「旧安田楠雄邸へようこそ」という冊子(1800円)を購入。ブログの説明内容にはこちらの本を参考にさせていただいた。
その29頁から。
関東大震災、戦災、そして近年の再開発を奇跡的に免れて、古き良き東京の面影を今に残す安田邸。安田幸子さんは生前、「普請道楽の藤田さんがお建てになった家なので、大切にしてきました」とおっしゃっていました。そのお気持ちがあったからこそ、っこの大きなお屋敷が時代の変転に翻弄されることなく、今もなお、気品に溢れた佇まいで訪れる人々を魅了するのでしょう。
まさにそのとおりだった。
最後にチラッと応接室。
平面図を再び。右下が玄関。雁行型のプランを堪能できた。
玄関の外壁。セミの抜け殻はあえて残してみたのだそう。
玄関前の大きなスダジイ。
15時を過ぎて門は閉まっていた。
玄関脇の案内。
イベントスケジュールも掲示されていた。
説明板もあった。
東京都指定名勝 旧安田楠雄(やすだくすお)邸庭園
所在地:文京区千駄木5-20-18 指定:平成10年3月13日
旧安田楠雄邸庭園は、「豊島園」の創始者で実業家の藤田好三郎によって作られ、大正8年(1919)に家屋が竣工し、その後庭園が完成しました。大正12年の関東大震災後、安田善四郎が買い取り、平成7年に善四郎長男の楠雄氏が亡くなるまで大切に住み続けられ、平成8年に公益財団法人日本ナショナルトラストに寄贈されています。安田善四郎は、旧安田財閥の創始者である安田善次郎の女婿です。
当初約1800㎡であった(現在は約1500㎡)敷地は東西に長く、雁行式に配した日本家屋に沿って、前庭・主庭・中庭・坪庭の4つの庭園が配されています。特に南側の主庭は滝石組を含む東西16mある”流れ“を主景とし、効果的に配された樹木が絵画的な美しさを添え、各室からはそれぞれに異なる景色を楽しむことが出来ます。建物も、洋風の応接間を併せ持つ近代和風住宅であり、照明や家具も当時のままに残されています。建物と庭園とが共に関東大震災と第2次世界大戦の被災を免れ、今日まで受け継がれてきた貴重な文化財です。平成26年3月建設 東京都教育委員会