墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

重要文化財・日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 旧事務所(煉瓦資料館) 埼玉県深谷市上敷免

前回のつづき。

深谷シリーズ”も11回目になって、やっと当初の目的地に。

尾高惇忠の生家を訪ねた後にコンビニの駐車場で遅い昼食のおにぎりを食べて、最後に日本煉瓦製造(株)の製造施設へ向かった。

旧事務所棟が資料展示施設になっていて、前に駐車場がある。

入館が15:30までと最初に訪ねた誠之堂の方に聞いていたが、結構間際の時間になっていた。

 

まずは説明板。

日本煉瓦製造株式会社旧煉瓦製造施設 旧事務所

重要文化財(建造物) 平成9年5月29日指定

建物は明治21年頃の建設で、煉瓦製造施設の建造と煉瓦製造技術の指導に当たったナスチェンテス・チーゼ技師が住居兼工場建設事務所として使用したと伝えられている。地元の人々からは「教師館」「異人館」の名で呼ばれていた。

日本煉瓦製造株式会社は、明治政府が計画した洋風建築による官庁街建設を推進するため、煉瓦を大量に供給する民営工場として、渋沢栄一らが中心となって設立された。工場建設地は、当時政府に招かれていた建築技師ウィルヘルム・ベックマン、チーゼらのドイツ人技術者の指導により選定され、良質の原土を産出し、水運による東京への製品輸送が可能な現深谷市上敷免(じょうしきめん)新井に決定された。チーゼは娘クララと共に明治22年12月に帰国するまでここで生活し、彼の帰国後は会社事務所として使用された。

文化庁 埼玉県教育委員会 深谷市教育委員会

 

なんとなく北海道開拓の建物のような雰囲気。

 

明治21年つまり1888年頃の竣工で130年近くを経ている。

 

 ぐるっと回って反対側。煉瓦の基礎の上に建っていることがわかる。

 

裳階のように軒下が迫り出している。

 

その張り出し部分の内部。

 

少し引いて撮るとバックに煉瓦窯の煙突が入った。

 

位置関係を表す案内図。上が旧事務所棟で下にホフマン輪窯6号窯が残っている。

 

こちらでも外まわりの手入れをしていた方がガイドの方だった。

旧事務所の煉瓦資料館は土日のみ開館(9時~16時)で入館無料。

ここまで回った施設が、すべて見学無料で各々に豊富な知識を持つボランティアガイド方がいらして興味深い話を伺えることに感銘を受けた。

 

内部にあった日本煉瓦製造(株)のかつての雄姿。旧事務所と同じ明治21年(1888)に操業開始。現在位置は右寄りのピンク付箋の部分。

 

明治41年頃の写真。引き込み線際に煉瓦が山と積まれている。

年産3500万個の煉瓦は東京駅や赤坂離宮をはじめ、日本の近代化を文字通り支えた。

 

ちなみに富岡製糸場の煉瓦は、製糸場建設時の明治5年に群馬県甘楽町福島の笹森稲荷神社付近に作った窯で深谷から来た瓦職人によって焼かれている。

建物のしょうかい | 富岡製糸場ホームページ

 

富岡製糸場へは3年前、世界遺産になる前に訪れたが、煉瓦の由来や尾高惇忠のことは全く覚えていない・・・

 

以下はいただいたパンフより。

日本煉瓦製造株式会社の歴史

明治政府は、欧米列強に対抗するため日比谷周辺を近代的建築による官庁街とする「官庁集中計画」を立ち上げ、明治19年に臨時建設局を設置します。建物群は西洋風の煉瓦造りとするため多量の煉瓦が必要となりました。

財政的に厳しい政府は、実業界の重鎮渋沢栄一に大量生産が可能な機械式煉瓦工場の設立を要請しました。

従来から瓦製造が盛んで、煉瓦素地用の良質な粘土が採れること、また小山川から利根川に下り、江戸川を経て隅田川を通り東京方面へ煉瓦を運ぶための舟運が見込めることから、渋沢は実家近くの上敷面村を工場建設地として推薦します。

明治20年、渋沢栄一ほか4名の連名で「会社設立願」を東京府庁へ、「煉瓦製造所設立願」を埼玉県庁へ提出し、それぞれ認可されました。建設にあたりドイツ人煉瓦技師チーゼを雇い入れ設計等にあたらせます。

明治21年、まず事務所の建設を行いました。窯は、ドイツ人フリードリッヒ・ホフマンが考案した最新式「ホフマン式輪窯」の図面をドイツから取り寄せ、建設を始めます。また、蒸気汽罐・機械・素地製造機などは、ドイツから輸入しました。同年9月に1号窯の火入れが行われ、10月4日には臨時建設局より煉瓦22万本の注文を受けました。翌22年には2号窯と3号窯が完成し、操業を拡大しました。

最盛期には6号の窯が稼働していた工場も時代の波に押され、平成18年には約120年におよび会社の歴史に幕が降ろされました。

 

 

この工場での煉瓦素材は、土と砂で9:1の割合くらいだったと伺った。

 

ホフマン輪窯の平面図と立面図。

高さ2.6mほどのカマボコ型の部屋が6m毎に仕切られていて、ある場所に一度火を入れると反時計回りで連続して煉瓦を焼成していけるのが特徴。窯積め、予熱、焼成、冷却、窯出しの工程を順次行い半月かけて窯を一周した。

燃料は上の穴から石炭をくべる。

温度センサー等なかった時代なので、目一杯積んだ煉瓦が焼かれて縮小するその沈み具合を目で見て判断したそうだ。

 

ちなみに煉瓦は土に含まれる鉄分の酸化で赤くなる。低温(約800度)だと色が薄くなって下記のようにオレンジに。

 

高温だと中央右寄りのように黒くなるそうだ。

煙を吸ったり酸素が足りなくなっても黒くなるので、窯では煙をどう逃がすかの工夫も凝らされている。

 

ちなみに白煉瓦は珪藻土を材料とし、溶鉄炉などの高温に耐える耐火煉瓦で、製法も異なるそうだ。

 

何かの機械。

 

ちなみに煉瓦の大きさは職人が片手で持てるサイズが元になっている。海外から入ってきたときはもっと大きかったものを日本人に合わせて小さくしたが、いくつかのサイズにわかれたものを、ここ日本煉瓦製造と大阪の煉瓦製造会社で話し合って大きさを統一したそうだ。

 

装飾用の変形サイズもある。

 

中央停車場(東京駅)への煉瓦代の請求書。

 

歴史的れんが製造所マップ。現役煉瓦工場は今では国内で数箇所しかない。

 

ひとつひとつ、製造所ごとに刻印がある。ここは「上敷免」(じょうしきめん)印。

 

石炭をいれた「穴」と「柄杓」

 

右は石炭をいれていた木箱。

 

ピアノ線のようなもので練った煉瓦材料をスライスする道具。

 

鉄道が敷かれる前の地図。かつては舟で運び出していたが鉄道によって効率が圧倒的に変わった。

 

かつての雰囲気を残す廊下(こちらは立入禁止区域)

 

正面入口からの廊下。

 

ここをよく見ると、気になる注意書きが。

お目当てのホフマン輪窯は団体予約のみで通常公開はしていなかった。なんという不覚!

ただ、その代わりといっては何ですが、見学者は自分1人だったので、ガイドの方の話をじっくり伺うことができた。

 

自分の変な質問「煉瓦建物は石ではなく土の建物と呼べるのか」にはにこやかにお笑いんになるだけでしたが、かつて煉瓦建物とコンクリート建物で強度比較実験を行ったときに煉瓦の方が強いという結果が出たこともあったそう。

「素材を焼いた煉瓦と水で反応させただけのコンクリート、どちらが強いかは自ずとわかるでしょう」とのコメントは奥深かった。

 

煉瓦建物の出来始めはモルタルの「つなぎ」をみようみまねでつくることもあって強度不足が生じたが、濃尾地震(明治24年:1891)を経て改善されたそうだ。

 

いろいろ質問に答えていただき、誠にありがとうございました。

 

 

ホフマン窯のほうは写真を見てため息をつくだけに終わった。ガイドの方に「絶対見るべき」と言われた。

ゴールデンウィークと11月11日(渋沢栄一の命日)に近い日曜日には一般公開されるそうだが、やっぱり貸切で見たい。家族だけでは10人にならないので、どなたか一緒に行きませんか~。

つづく(残り1回)