墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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白田山満福寺 井椋神社 鶯の瀬 畠山重忠史跡公園 埼玉県深谷市

この日(1/9)の目的地は鹿島古墳群と深谷の煉瓦工場跡と決めていた。

途中カーナビに、気になる史跡マーク「畠山重忠史跡公園」が出たので寄ってみることにした。

畠山重忠は、前回にもリンクを入れたが吉見百穴と稲荷塚古墳を見たときに寄って大変感動した菅谷館の主。平家物語の登場人物であるにもかかわらず、自分は菅谷館の主である以上に詳しいことは覚えていなかった(知らなかった)

吉見百穴、野本将軍塚古墳、菅谷館跡、稲荷塚古墳 - 墳丘からの眺め

 

 

途中、道沿いに川を背にして立っていた庚申塔。

 

 こちらの如意輪観音には屋根がつけられていた。

 

馬頭観音や水神も祀られていた。

 

先へ進むと満福寺というお寺があった。

同僚が眠っている埼玉県の日進のお寺と同じ寺名だったので思わず立ち寄った。

同僚のお墓参り 埼玉県さいたま市北区日進町 - 墳丘からの眺め

 

県による説明板もあった。

満福寺(まんぷくじ) 所在地:大里郡川本町大字畠田

白田山観音院満福寺は、真言宗豊山派の寺院で鳥羽天皇(1110年頃)の御代に弘誓房(ぐせつぼう)深海上人が草創した。

後に畠山重忠公が寿永年間に再興し、菩提寺としたものである。

本尊は不動明王、制吒迦(せいたいか)、矜羯羅(こんがら)両脇侍の三尊立像で彩色の宮殿に安置され、須弥檀、前机とともに町指定文化財になっている。

現本堂は、以前は講堂で間口十間、奥行七間あり、寛政4年(1792)建立のものである。

重忠公の菩提寺として実山宗眞大居士の位牌があり、寺宝として茶釜、茶碗、太刀、長刀、大般若経、御朱印状等が伝えられている。

別棟の観音閣には、重忠公の守本尊(等身大)である六尺三寸の千手観音像が安置され、秩父坂東西国百番観音像、算額絵馬(和算家が自己の発見した数学の問題や解法を書いて奉納した絵馬)等がある。

また、当寺の裏には、彰義隊士水橋右京之亮の墓、重忠廟の碑もある。

平成11年9月 埼玉県

 

先を急いだので扉の前で参拝した。

 

こちらは観音閣。 

 

境内にあった馬頭観音碑。

 

境内に昔風の墓地があった。

 

満福寺の右隣に神社入口があったので行ってみた。

 

となりの畑では”深谷ネギ”が収穫を待っていた。

 

神社の社殿は思ったより奥にあった。

 

森閑とした境内。

 

説明板があった。

井椋神社(いぐらじんじゃ) 所在地:大里郡川本町大字畠山

井椋神社は、畠山氏の先祖である将恒(まさつね)から武基、武綱、重綱、重弘、重能に至る間、秩父吉田郷領主として井椋五所宮を敬ってきた。その後、重忠の父重能畠山庄司となって館を畠山に移した時、祖父重綱が勧請(分祀)したものである。

初めは、井椋御所大明神、井椋五所宮と号していたが後に井椋神社と改称したものである。

祭神は、猿田非子大神ほか四柱である。そのほか境内には近所の各神社が合祀され、蚕の神様である蚕影(こかげ)神社、源氏の白旗を祭った白旗八幡神社等がある。

また、社殿の裏の荒川断崖に鶯の瀬の碑が建立されている。

平成11年9月 埼玉県

 

 境内裏は荒川の崖が迫っていた。

 

そのすぐ先に、鶯の瀬の石碑と説明板が立っていた。

鶯の瀬 所在地:大里郡川本町大字畠山

荒川のせせらぎの聞こえるこの地を鶯の瀬といい、増水時でも川瀬の変わらぬ浅瀬である。

ここは、畠山重忠公が榛沢(はんざわ)六郎成清のもとに行き、帰路豪雨に逢い、洪水で渡れないでいるときに一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれたと言い伝えられており、その故事を詠んだのが次の歌である。

 時ならぬ岸の小笹の鶯は 浅瀬たずねて鳴き渡るらん

また、この上流には、古くから熊谷市・江南村方面にかんがい用水を送ってきた六堰があり、遠く秩父連山を眺めながら鮎、ウグイ(通称ハヤ、クキ)等の釣り場として親しまれている名所でもある。

平成11年9月 埼玉県

 

 すでに見慣れたカルタも。

 

対岸はコンクリート工場のようだ。

 

満福寺に停めていた車に戻り、その先の畠山重忠史跡公園を訪ねた。

 

こちらの覆い屋(昭和57年設置)に五輪塔が6基納められている。

 

説明板があった。

畠山重忠公の墓(はたけやましげただ) 所在地:大里郡川本町大字畠山

鎌倉時代の関東武士を代表する武将である畠山重忠公は、長寛2年(1164)秩父庄司重能の二男として、現在のこの地の畠山館に生まれ幼名を氏王丸と言い、後に畠山庄司次郎重忠となった。

剛勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く県北一帯の支配のみならず、伊勢国沼田御厨(三重県)奥州葛岡(岩手県)の地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されてきたが、頼朝なきあと北条氏に謀られて、元久2年(1205年)6月22日に二俣川にて一族とともに討たれた。時に重忠42歳、子重秀は23歳であった。

この畠山館跡には、重忠公主従の墓として6基の五輪塔がある。

また、館跡には嘉元2年(1304年)の紀年号がある百回忌供養の板石塔婆、芭蕉句碑や畑和(元埼玉県知事)作詞による重忠節の歌碑などがあり、館の東北方には重忠産湯の井戸などもあって、通称「重忠様」と呼ばれて慕われ、現在はこの地一帯が重忠公史跡公園として整備されている。

平成11年9月 埼玉県

 

畠山重忠については下記のサイトにまとまっている。読んでファンになってしまった。

畠山重忠 - 埼玉県立嵐山史跡の博物館

畠山重忠(1164~1205)は、平家物語で有名な、宇治川や一の谷の合戦や奥州藤原氏との戦いで活躍し、建仁3年(1203)には北条義時に従って比企氏一族を討滅し同年には鎌倉中の寺社奉行にも選ばれた。しかし元久1年(1204)に子の重保が京都で平賀朝雅と喧嘩したことから、牧の方(北条時政の後妻)が女婿の朝雅の訴えを受けて時政に讒言し、時政が重忠に謀反の罪をかぶせ、二俣川(神奈川県横浜市旭区)で待ち伏せして殺したことが書かれている。

 

42歳の若さで・・・

 

このあたりの歴史は血生臭い。

その後、北条時政は牧の方と共謀して平賀朝雅を将軍に擁立しようと3代将軍の源実朝の殺害を謀るが、実子の北条政子・義時の動きにより失脚。

牧氏事件 - Wikipedia

その実朝は結局は兄の頼家の子によって暗殺され(頼家は北条氏が暗殺)、源氏政権はここで途絶えてしまう。

そのあたりの話はこちらの方のブログに詳しかった。

源実朝の二つの供養塔が語るもの

 

歴史は勝者が書くものであるから、何が真の事実かわからない部分も残るがそれにしても牧の方、おそろしい・・・

 

 

覆い屋の中の五輪塔(格子越しに撮影)

右が伝畠山重忠墓で鎌倉期後半までに作られている。左はそれより古い13世紀後半代の作の伝本田親常墓。

 

その右に3基。左のものも13世紀後半の作で平安期の特色を残す古式なものだそう。

全部で6基あり、そのうち2基は明治期に満福寺から移設されたと推測されている。

 

公園には大きな重忠公の銅像。平家物語の有名な一場面、一の谷合戦で愛馬三日月を背負って急峻な崖を駆け降りた”ひよどり越えの逆落とし”の雄姿。

 

根元に埋められたタイムカプセルが開くのはまだ70年以上先。

 

公園には桜の古木があった。ロウバイも数本。

 

公園にあった案内板「荒川田園コース」 下が北。

なにげなく見ていたら気になる案件がいくつも見つかった。

 

右下に「権現坂はにわ窯跡」、中央に「行人塚古墳」、その少し上に「八幡神社と古墳群」

 

さらに上(南)には「塩古墳群」も。

 

東の秩父鉄道熊谷検車区のそばには「宮塚古墳」や「重要文化財 平山家住宅」が。

 

しばし迷ったが、これらに立ち寄るともうひとつの目的地の旧煉瓦工場施設へ行けなくなるので次の機会とした。

このあと荒川にかかる橋の近くでハクチョウを見てから深谷駅へ向った。

つづく。