墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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茨城大学市民講座「巨大古墳が築かれたころの東日本 石岡市舟塚山古墳・水戸市愛宕山古墳の調査から」

前々回のつづき。

愛宕山古墳から茨城大学までは1kmほど。

 

古墳を実際に探訪したあとに、その古墳についての講座を聴講した。

どきドキ市民講座2015「巨大古墳が築かれたころの東日本 石岡市舟塚山古墳・水戸市愛宕山古墳の調査から」というタイトルで、会場は図書館の3階の階段教室。

 

興味深い企画展も実施されていた。

 

古文書や古地図など、学生や市民のボランティアが4年以上の歳月をかけて整理や修復の作業を行ってきた文化財20件の公開。「残っている」のも、残そうとした人々の努力の賜物であることを再認識した。

 

きれいで広いキャンパス。教室も快適だった。

 

講師は茨城大学人文学部の田中裕教授。

90分ほどの時間で、古墳時代時代の概要から茨城県内の古墳の様子までわかりやすく詳しい内容の講義を楽しませていただいた。

 

導入部分は「仁徳陵古墳からみる巨大古墳の特徴」

呼び方の背景、世界三大墳墓(堺市による)の比較、巨大古墳の特徴、「倭の五王」の時代 、雄略天皇と倭王「武」・ワカタケルと鉄剣の話へと進行する。

断片的に知っていたことを改めて流れで聴くことで理解も進んだ。

さらに、古墳時代中期の巨大古墳である古市古墳群(大阪府)、百舌鳥古墳群(大阪府)、佐紀盾列古墳群(奈良県)、馬見古墳群(奈良県)の規模や位置関係を確認し、直木孝次郎・上田正昭による「河内政権」論、小野山節による古墳の「規制」説、都出比呂志による「前方後円墳体制」説に触れられた。

 

特に興味深かったのは後半からの、茨城県内の中期古墳と最新調査の項。

茨城県の古墳の特徴は、前方後円墳は数が少ないが、大型の円墳の数が多いという説明があった。

高山塚古墳は直径90m、大洗車塚古墳(82m)、茨城町諏訪山1号墳(55m)、美浦村弁天塚古墳(55m)、ひたちなか市三ツ塚12号墳(51m)、小美玉市塚山古墳(50m)と続く。(上記で高塚山古墳へは昨年末に訪れた)

梵天山古墳群~阿弥陀塚古墳(2号墳)、高山塚古墳(3号墳)、富士山塚古墳(6号墳)、島の百穴 - 墳丘からの眺め

 

そして講義の核心部、石岡市舟塚山古墳と水戸愛宕山古墳の調査のお話へ。

舟塚山古墳は過去に2回訪れた、自分のなかで ”one of the best” の古墳。

国指定史跡・舟塚山古墳(再訪) 茨城県石岡市 - 墳丘からの眺め

舟塚山古墳、府中愛宕山古墳、三昧塚古墳、富士見塚古墳 - 墳丘からの眺め

 

田中先生は2011~12年に明治大学と共同で古墳を実際に調査されている。

舟塚山古墳は墳丘長186mで、少し胴長の前方後円墳。盾形周溝は全周していた可能性がある。くびれ部の造出し(つくりだし)は左側が確認され、左右対称に右にもあった可能性がある。正確な技術で地盤の水平が取られていて、その大きさに対して誤差は僅か50cm以下。出土した埴輪片には有黒斑がある(つまり焼成にはかまどをつかっていない)

レーダー探査により14m×6mほどの埋葬施設が後円部の中心を外した位置に確認されたが、厚みがなく中が抜けているので石室ではなくて粘土槨のようであり、想定よりも古いと考えられるそうだ。古墳全体の形は百舌鳥古墳群のタイプと似ているので、仁徳陵古墳のような長持ち型石棺があるのでは、という期待とは異なる結果となった。

埋葬施設の存在は前方部にも確認された。

 

田中先生は水戸愛宕山古墳も2013~14年にかけて現地調査をされた。

現存の墳丘長は136mだが140m前後はあったと考えられ、盾形周溝が全周をめぐり、くびれ部の造出しもある(右側は確実)

埴輪に有黒斑があるのは舟塚山と似ている。

しかし墳丘の平面形状は、舟塚山が胴長のタイプに対して、愛宕山は寸胴タイプと異なる。

興味深いのは畿内の百舌鳥古墳群と古市古墳群も、前者の胴長タイプで後者が寸胴タイプ、という特徴があり、それが等高線測量図とともに茨城の古墳と比較して示されていて非常に興味深かった。

 

最後に、東日本からみた古墳時代中期(5世紀)の概説。

千葉県香取市には舟塚山古墳の3分の2の相似形の三之分目大塚山古墳(123m)もあり、「香取の海」沿岸には”舟塚山古墳体制”のようなものがあったと考えられるようだ。 一方で、水戸愛宕山古墳はその体制とは異なる系統だった。

この時期、畿内でも古市・百舌鳥の両古墳群の存在があり、両古墳群は独自系統の墳丘形態を持っていたことは前述のとおり。

 

そして畿内では「最大古墳の移動」が大和川上流から下流域へと移っていく動きがあったが、古墳立地の上流域から下流域への移動は関東でも起こっていた。

茨城では内陸の梵天山古墳(151m・常陸太田市・古墳時代初期)から愛宕山古墳(140m・水戸市・古墳時代中期)への動きがそれにあたる。

 

西と東で離れた場所で同じような変化が起こっている(地方格差がそれほど大きくない)ことは、生活道具(土器)の斉一化や、馬が陸上交通の主役になる動きにも見られる。

 

土器は4世紀前半までは各地で地域性が強く見られたが、5世紀中頃になると1つのタイプに集約されていく。地域性があって当然の生活用具がそのような状態になるのは実は「異常な状態」であり、この「驚異的な広域性」は、統治者と民衆とが同じ方向を向いていたと読み取れる、とのこと。

また、古墳の副葬品は5世紀の中期になって一斉に馬具が増える。それと同時に舟の表示も活発化する。舟形埴輪の中には、オールの穴まで表現されるものもある。

(これまで自分の中では馬と舟とは別の交通手段だと思っていました。舟で川を遡る場合は馬で曳かせる必要があるので馬と舟とがセットによって内陸部まで物流が活発になったことを今回の講義で認識できてとてもためになりました)

 

上記のような状況を総合すると、古墳時代中期(5世紀)は各地において”王と民衆の蜜月”が見られ、その終わりとともに武断体制(ワカタケル王)が整備されていった、ということが最後に語られた。

 

田中先生、興味深いお話を聞かせていただき御礼申し上げます。自分にとって発見のある非常に有意義な講座でした。

当方の認識の誤り聞き違いもあると思いますので、もし当ブログを見る機会がありましたら、何なりとご指摘くだされば幸いです(コメント欄、非公開にもできます)

また準備いただいた主催者・関係者のみなさま、貴重な機会を設けていただき、誠にありがとうございました。

 

 

キャンパスを出てバス通りへむかう途中、大谷石の素敵な蔵がありました。

つづく。