前回のつづき。
地蔵の辻(後地:うしろじ 交差点)から東へ、後地(うしろじ)商店街「京栄会」の通りを進んだ。
道沿いに小さな社と大きな神輿の保管庫があった。
鳥居をくぐって右側に社殿。
境内に解説板があった。ここにはかつて丸亀藩の京極家の下屋敷「戸越屋敷」があり、その敷地内にあった稲荷神社だった。
丸亀藩京極家下屋敷跡
京極家は、讃岐国(香川県)丸亀藩5万2千石の藩主で、江戸屋敷のうち上屋敷と中屋敷は現在の港区内にあり、下屋敷は二ヶ所をかまえ「白金屋敷」(港区)と「戸越屋敷」と呼ばれていました。
戸越屋敷は現在の品川区小山2丁目14番から17番付近にあり、寛文6年(1666)二代藩主の京極高豊の時に取得し、敷地面積約8400坪(約2万7千㎡余)と広大なものでした。
この屋敷からは、野菜や薪を上屋敷などに供給していたことから、京極家と地元農民は結びつきが強かったと伝えられ、明治初年に京極家の手を離れた後も、同家の敷地内にあった京極稲荷神社は今も地元有志によって守られています。
平成12年3月31日 品川区教育委員会
道路側に建てられた神社御由緒。
前半部分は教育委員会の解説と重なるので、後半から。
境内には、地域の後地大神輿が、大正14年から大切に保管されております。
昭和20年5月23日の大空襲で、この周辺は、後地交差点から星講堂の基礎が見える程に、悉く焦土と化しました。
しかし、大神輿は、不思議にも焼失を免れ、往時の雄姿を今に残しています。このことは、当稲荷神社の紛れもない加護によるものと、語り継がれております。
なおこの度の再建にあたり、御影石の社号標、祠の土台等は、後地小学校旧正門の石柱を加工し、使用したものです。
平成9年11月30日(遷座祭の日) 世話人一同
御影石の社号標は立派なものだった。
神社の向かいの風格ある建物。クレーンは積み込みに使ったのだろうか。
その先に魅力的な枝道があった。
ゆるい下り道。車止めの石に歴史を感じる。
法華宗 芳荷山 長應寺。
左は星薬科大学、右は長應寺の敷地。コンクリ壁の間の道。
まっすぐ先に桐ヶ谷斎場がある。その奥にはDNPのビル。
吸い込まれていきそうな道。
一旦もとの道に戻ると、今度は右手に気になる枝道があった。
小さな公園の先は星薬科大学。
アントニン・レーモンドによる講堂のドーム屋根が顔を覗かせていた。
大学の敷地に沿った坂道。
なぜか、歩道と車道の傾斜が異なっていた。