墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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平塚橋の碑 @品川区平塚~荏原

中原街道(都道2号線)と都道420号線(鮫洲大山線)とが交差する「平塚橋」は、戸越銀座商店街と武蔵小山商店街とのつなぎ目にもなっている。

古道「碑文谷道」に誘われて行ってみた。

 

すでに橋はなかったが、石碑と説明板が建っていた。

 

説明板には碑文谷道ではなく、品川用水の歴史が書かれていた。

平塚橋と品川用水

品川用水の水路と旧中原街道が交差するところに架けられていた橋が平塚橋です。品川用水は、旱魃で悩まされていた品川領二宿七ヶ村が幕府に願い出て、寛文9年(1669)に完成した農業用水です。

水源は玉川上水の境村(現在:武蔵野市境3丁目)で、分水されて現在の三鷹市、世田谷区、目黒区を通り小山台1丁目で品川区に入ります。さらに、用水の流れは小山2丁目(地蔵の辻)で二股に分かれ、左手は百反通りの方角へ流れ桐ヶ谷・居木橋へ、右手は戸越から大井村までの田畑を潤していました。

農業用水としての役割を担っていた品川用水も、大正から昭和に入ったころには急激に市街化が進み、排水路へと変わり、昭和23年(1948)にはその管理は三鷹町(現:三鷹市)に移管され、その役目を終えました。現在、用水路の跡は道路や下水道として利用されています。

石碑とこの標識は、品川郷土の会はじめ地域の方がたによって建てられたものです。

・二宿七ヶ村とは、北品川宿・南品川宿・戸越村・上蛇窪村・下蛇窪村・桐ヶ谷村・居木橋村・二日五日市村・大井村です。

平成13年10月20日 品川区教育委員会

 

 歩道橋の上から。左下の車の左手前が碑のある場所。

右正面の家が独立島のようになっていた。

 

上記の位置から中原街道の西方向。

 

こちらは同じく東方向。左にクランクして入っていくのが旧中原街道。すぐ先にフランク・ロイド・ライトの弟子のアントニン・レーモンド(1888~1976チェコ生まれの米国建築家)が設計した講堂が今も残る、星薬科大学がある。

 

武蔵小山商店街のアーケード入口も見えた。

 

歩道橋の上り口にあった周辺案内図。左下が北。

せっかくだから左上に絵がある「平塚の碑:荏原4-6-4 新羅三郎義光が後三年の役(1083)の帰途、当地で盗賊により多くの将兵を失い塚を建てたという。戦後整地し、地元有志が碑を建立」という、現在地に最も近い史跡を訪ねようと住宅街の中をぐるぐる回ったが見つけることができなかった。

 

平塚の碑はあきらめて、左下にあった「朝日地蔵堂」へ向った。品川区のサイトに碑文谷道の道筋の「地蔵の辻」と書かれている。

江戸時代の道 第5回|品川区

 

武蔵小山商店街入口から右斜めに分岐する。古い道筋に水路も重ねて造ったのだろうか。

いかにもかつての用水路跡らしい緩い上り道を行くと、途中の公園に水車のモニュメントがあった。

 

道沿いにあったラーメン屋さん「麺や 一途」

立ち寄ったら、こってりしたスープが美味しかった。

 

さらに先には”天然銭湯”の「武蔵小山温泉清水湯」があった。

これもかつての用水の名残か。

 

その先が、地蔵の辻のようだった。「なんとなくX字」になっている交差。

 

しかし地蔵堂は発見でなかった。地蔵のような帽子をかぶった車除けを撮っただけ。

つづく。

 

あとで調べていたら、こちらの方のブログにしっかり写真があった。

・・・これは再訪しないと。