今月(11月)初旬に仙川へ行った際、川沿いの地形に古墳熱を呼び覚まされた。
仙川界隈(八幡神社・下仙川村弁天坂庚申塔・昌翁寺・仙川商店街) 東京都調布市緑ヶ丘~仙川町 - 墳丘からの眺め
自分にとってのバイブル「関東古墳探訪ベストガイド」に記載がありながら未探訪だった「天文台構内古墳」を11月21日に訪れた。
JR三鷹駅で降りて2番の調布駅行きに乗った。正しいバス路線、バス乗り場を探すのにかなり時間を取られてしまった。京王線調布駅からの方が近かったようだ。
駅前にあった三鷹市の地図(下が北)
国立天文台は右上の出っ張りの中央部の薄みどりのエリアになる。
30分ほどバスに乗り「天文台前」で下車。バス停から少し上がると正門があった。
国立天文台は、大学共同利用機関として全国の研究者が共同利用していて、世界最先端の観測施設を持つ。ここ三鷹市に本部があり、その他観測所が国内には水沢、野辺山、岡山、石垣島に、観測局が茨城、小笠原、山口、鹿児島にあって、海外にはハワイとチリに観測所がある。
その始まりは江戸幕府天文方の浅草天文台で、明治期には東京帝国大学構内に実測用の天文台が、さらに明治21年(1888)には港区麻布飯倉に東京天文台が造られたが、大正3年から13年にかけて(1914~1924)三鷹に移転した。
面積は26ha(26万㎡)なのでTDL(51ha)の半分強。下の地図は右が北。
敷地の西南に野川が流れ、国分寺崖線の上部、台地端の好立地。古墳のみならず、旧石器時代、縄文時代、奈良時代、そして近世に至るまでの複合的な遺跡が含まれいて、太古から人が暮らしてきた場所だった。
国立天文台の敷地となったおかげで開発を免れたことは幸運だった。
見学できるのは下図の赤いルートのみだった。年末年始を除けば毎日10時から5時で公開している。予約不要(ただし4D2Uシアターは事前予約が必要)
ちょっとした紅葉があった。
入口で古墳の位置を伺うと第一赤道儀室の近くだが見学コースからは外れているはずとのこと。木の葉散る道をちょっと肩を落としながら第一赤道儀室へ向かう。
と、可愛らしい建物が出現して気持ちが高まってきた。
以下は、いただいたパンフレットや東京都教育庁発行の東京文化財ウィークの絵葉書資料から。
第一赤道儀室 国登録有形文化財
大正10年(1921)完成の、このキャンパスで最も古い観測用建物。設計は東京帝国大学営繕課、施工は西浦長太夫。
鉄筋コンクリート造の2階建、ドーム内の望遠鏡は口径20cmのツァイス製で架台は重錘式時計駆動赤道儀(ガバナー式)
支柱の中につるされている錘が落ちる力を速度調整装置(ガバナー)で加減して駆動部分に伝え、望遠鏡を一定の速さで動かす仕組み。
昭和13年(1938)から61年間、太陽黒点のスケッチ観測に活躍した。
ドーム内の様子。
そして、この建物の右奥に、墳丘が顔をのぞかせていた。
木の葉が落ちて見える状況。夏は見えないのではないか。
古墳と隣合う第一赤道儀室。
正面に回ろうとしたが、この看板が・・・
道沿いの説明板だけ撮らせていただいた。
天文台構内古墳
この古墳は土を盛って造られ、周囲を巡る堀(周溝:しゅうこう)によって方形に区画された1段目と、その上に円形の2段目が築かれた「上円下方墳」と呼ばれる古墳のひとつの形です。
墳丘内部に築かれた横穴式石室は、切石を用いていること、遺体を安置する玄室及び前室と羨道の複数の部屋を有すること、玄室の平面形が三味線の胴のように外側に張り出していることも大きな特徴です。また、墓前域の両側壁の石積み施設はこの地域の石室の特徴です。
玄室の床面に副葬品の須恵器(フラスコ形長頚壺)と土師器(坏:つき)が発見され、これらの土器の想定される年代が7世紀の中頃(651~675年)であることから、その頃に造られた古墳と考えられます。
前方後円墳など大形古墳が造られなくなった古墳時代終末期に、上円下方墳の武蔵府中熊野神社古墳(府中市)や、石室の形が似ている北大谷古墳(八王子市)とともに、この地域を治めていた豪族の墓と考えられます。 三鷹市
先の「関東古墳ベストガイド」によれば、天文台構内古墳は下方墳一辺27~28m、上円墳直径18m、高さ2.2m。
古くは富士塚として信仰されていたが、古墳であることが判明したのは、三鷹市の市史編纂委員会が発掘調査をおこなった昭和45年(1970)のこと。その際に横穴式石室の存在が明らかになった。
平成18年(2006)の石室全容調査の際に、複室・胴張り形の石室であることが確認された。翌年には墳丘や墳丘周囲の発掘調査が行われた結果、この古墳が全国4例目の上円下方墳であることが判明した。ただし、武蔵府中熊野神社古墳と違い、円墳の周囲に方形の周溝がある形である。
解説板の位置からは古墳はほとんど見えなかった。
さらに下記も関東古墳ベストガイドから。
天文台構内古墳の周辺には数多くの横穴墓があり、野川流域にある7つの横穴墓群うち、6つは国分寺崖線に沿っている。それら横穴墓が造られた時期は7世紀中頃から後半以降と推測され、天文台構内古墳の被葬者は、横穴墓を造った集団を支配する有力な首長であったと考えられている。
これはいつか横穴墓のほうも見てみないと・・・
検索していたら、こちらに昭和46年3月の発掘調査時の貴重な写真があった。
http://prc.nao.ac.jp/prc_arc/arc_news/arc_news372.pdf
つづく。