墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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史跡「立石」 熊野神社古墳跡 南蔵院裏古墳跡 @東京都墨田区 東京文化財ウォーク「東京下町の古代史と立石様」ツアーより

11/8日曜日の午後、東京文化財ウィーク2015にあったこちらのミニツアーに参加した。

京成線の、立石(たていし)駅ではなく青砥(あおと)駅に集合して、小雨模様の中「立石様」に向かって歩き出す。

住宅街の中をゆるくカーブする昔ながらの道(下の写真の右)を進み、神社の境内を通って立石児童遊園へ向かった。

 

歩いたのは下の地図の青砥駅の南、蛇行する中川に周囲3面を囲まれているエリア。

 

最初に立ち寄ったのは熊野神社。

 

推定樹齢300年のクスノキが社殿の左右に2本立つ。

 

社殿前から鳥居側、南方向。奥に見える土手は中川。

 

鳥居の外側から。この左のビルの位置に、かつて古墳があった。

熊野神社古墳跡 円墳 7世紀後半

 

いただいた資料から。調査用のトレンチなどが掘られている。

調査時点では墳丘削平後で埋葬施設も破壊されていたが、周溝跡から土師器や須恵器が出土し、それらの遺物から築造は7世紀後半と推定されるそう。

 

そこから通りを100mほど西に行った信号で振り返ったところ。

 

そのマンションの前あたりもかつての古墳跡だった。

南蔵院裏古墳跡 円墳 6世紀後半

マンションの後ろに南蔵院というお寺がある。

こちらも明治時代に削平されてしまったが、出土した埴輪片から6世紀後半の築造と推定されるとのこと。熊野神社古墳より1世紀古い。

ここからは埴輪の頭部も出土している。こちらの方のブログに写真がある。

南蔵院裏古墳

 

南蔵院裏古墳跡から真西に80mほどの場所に「立石様」が祀られている小公園があった。

 

児童遊園だが敷地内にも鳥居が立る。

 

砂場をよけるようにその先へ行くと、再び小さな鳥居があり、玉石垣があった。

 

横からみたところ。玉石垣の後ろにさらに小さな祠もあった。

 

玉石垣の中に「立石」が頭だけ出していた。

 

 詳しい解説板があった。東京都の史跡指定を受けたのは昨年で解説板も今年3月のものだった。

東京都指定史跡 立石

所在地 立石児童遊園内(葛飾区立石8-37-17)

指定 平成26年3月25日

立石は、中川右岸に形成された自然堤防上に位置する石標です。石材は千葉県鋸山周辺の湾岸部で採集されていた、いわゆる房州石で、最大長約60cm、最大幅約24cm、高さ約4cmが地上部に露出しています。

一般的に「立石」という地名は、古代交通路と関係が深い詰めいで、岐路や渡河点などに設置された石標に因むとされています。この立石のある児童遊園の南側、中川に接する道路は、墨田から立石、奥戸を経て中小岩に至り、江戸川を越えて市川の国府台へと一直線に通じており、平安時代の古代東海道に推定されています。そのため、この立石は古代東海道の道標として建てられたと考えられます。

江戸時代後期以降、立石は寒さで欠け暖かくなると元に戻る「活蘇石(かっそせき)」として江戸名所図会などの地誌類に多く記載されるようになります。立石が玉石垣で囲われるようになったのは文化年間(1804~1818)以降で、その周囲に梛(なぎ)や小竹が繁茂する、社叢を呈していました。

「雲根志」には、立石が高さ2尺(約60.6cm)程度であったとされていますが、御神体として祀られて以降、風邪の煎じ薬や、愛石家のコレクションとして人々に削り取られていきました。また、御守として戦場に持参したという言い伝えもあり、その結果、現在の高さに至っています。

なお、大正12年には人類学者の鳥居龍蔵がこの地を訪れ、石器時代人が信仰のためか、墓標として建てたものと結論づけています。その後も中谷治宇二郎、大場磐雄ら考古学者により、先史時代の思想や信仰を明らかにする遺跡として取り上げられてきました。

東京低地における古代の交通史、近世以来の民間信仰をうかがい知ることができ、日本先史時代の研究史上重要な遺跡です。

平成27年3月 建設

 

ここで敷地内の公民館施設で、葛飾区郷土と天文の博物館の学芸員の方のレクチャーを受けた。「実物」のお隣で講義を聴けるという贅沢な企画。

 

その内容においても、立石は周辺古墳の石室石材らしいという大変興味深いお話も!

石は凝灰岩。火山灰や土砂が水中で堆積して圧されて岩になった。表面に孔があるのが特徴だが、ここから2.5km北東にある柴又八幡神社古墳(6世紀後半~7世紀初:前方後円墳)の石室も同じ石質で、その石は房総半島の鋸山の海岸から運ばれた房州石であることが判明している。

 

2年前に柴又八幡神社古墳の見学会に参加して、社殿の真下の石室を見せていただきました。

 

こちらは立石様のアップ。斜めに筋がはいっているのは堆積の跡になる。下の一円玉はお賽銭。

 

いただいた資料の地図より。立石のある場所は、奈良・平安時代の古代東海道と推定されるルート上にある。 

道の左(西)には豊島「駅」(北区の飛鳥山のすこし東側の御殿山遺跡)、道の右(東)には井上「駅」(市川市の国府台・下総国府)があった。

 

立石がある地点は、柴又帝釈天への帝釈道の分岐点だった。

古代、官道の分岐点や駅家に道標としての「立石」と置くことがあったそうだ。

「本来、古墳の石室造りのために運び込まれた石が、奈良・平安時代になって古代東海道の道しるべとして転用された可能性も考えられています」とのこと。

 

このあたりはかつて利根川も流れ込んでいたデルタ地帯で、石になじみがない風土だった。人が暮らした痕跡は青戸村(青砥)の3世紀後半ごろから。なぜか5世紀は暮らしの跡がないそうだが、以降面々と人が住み古墳もできて、大化の改新後に都と地方を結ぶ道がつくられてからは立石や大道(だいどう)などの地名もついた。

 

帝釈道ができた理由としては、柴又(かつての島俣)は渡河地点で、現在の矢切の渡しのあたりは岩盤が埋まる浅瀬で流れも遅いので「平安海進」の際にはこちらが下総台地(そしてその先の東北)へ向かうルートであったとも考えられるそうだ。

(ちなみに矢切という地名も台地に谷が入って通りやすくなっている地形を表している)

 

中世には「葛西城」もあった。葛西城は戦国時代、国府台の戦いに備えて北条氏が築いた陣だが、その井戸の石組みにも房州石が使われており、古墳石室の石と考えられるそうだ。

 

かつて、石が珍しかったこの葛飾エリアの人々には石に対する特別な思いがあって、今も語り継がれえている伝承として、「立石様を掘るとバチがあたる」「立石様は青砥駅までその根が続いている」「中川が蛇行しているのは立石様を避けて掘ったからだ」などがあるそうだ。

 

非常にエキサイティングなお話を伺うことができました。解説いただいた学芸員の方々そして協力いただいたボランティア方々、誠にありがとうございました。

 

 終了後に中川へ。

 

青砥駅付近の京成の高架。上りと下りで2層に分かれている。

 

京成本線と押上線との分岐