墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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照田家住宅 東京都墨田区緑

東京文化財ウィーク2015の企画事業一環で、墨田区教育委員会が主催する「国登録文化財・照屋家住宅の特別見学会に参加することができた。

 

場所は両国駅から東南東に700mほど、墨田区立緑小学校の西隣。

江戸時代からの市街地「本所」で、関東大震災と東京大空襲によって壊滅的被害を受けた地区だが、戦後間もない昭和28年(1953)年に、3年の歳月をかけてつくられた。

施主の照田一二三氏はこの地でメリヤス工業を営んだ方で、設計施工は大工棟梁の古橋正吉。現在も照田家が所有しているおり、普段は非公開。

この日も、写真撮影は敷地の外からに限られた。

 

150㎡ほどのそれほど広くない敷地に木造二階の建物と庭がコンパクトに配置されるが、選びぬかれた材を多用して凝った意匠が施された建物内部は小宇宙のように感じられた。

 

集合時間に遅れてしまって洋室内部を見る時間がなかったが、1階の居間・茶の間、離れ、2階の座敷二間などを、学芸員の方の解説を伺いながらじっくり見学することができた。

各部屋とも、窓飾りや障子の腰板、欄間に繊細な彫刻が施されている。

1階居間の雪見障子の腰板は室内側が象嵌が施された桐材、外側は桧材と表裏で材を合わせたもの、床の間は床柱に黒檀、落とし掛け(上部枠の横木)に鉄刀木(タガヤサン)という東南アジア原産の銘木が、床板には欅の一枚板が使われている。

襖の引手などの細かい金具も特注品で、1階は「葉」の形、2階は「千鳥」の形になっていた。千鳥のモチーフは窓の外の欄干などにも見られ部屋全体で意匠が呼応して響きあうように考え抜かれていた。

意匠のまとめ方は部屋ごとに微妙に変わっていくが、特に1階の離れのつくりが非常に手が込んでいた。その天井は分割された面を異なった方式の編上げ素材を使ったもので、参加者一同見上げながらため息をついた。

ちなみに2階の便所では天井一面に扇の図柄が大胆に使われていた。客人が「ふっ」と見上げて「おっ」と思うように仕掛けたのでは、と思われた。

 

2階の廊下に掃除様の吐き出し口があったり、1階のキッチンにダストシュートがあったりと、さまざまなところで形だけでなく機能の合理性も考えられていた。

(この年代では珍しかったシステムキッチンには「MITSUOSHI」のロゴがある)

シャワーが取り付けられている風呂場には、壁一面に美しいタイルが貼られていた。

 

いただいたリーフレット「すみだ文化財アルバム」の当建物の項には下記のようにある。

 一二三氏はこの建物の建築にあたり、いしょうや素材の選定に多くの時間を費やしました。そのため住宅建築でありながら、繊細な工作技法の選択、各室の建具や照明器具などにみられる様々な意匠、紫檀や鉄刀木(たがやさん)などの銘木を多用するなどの特徴がみられ、建物の文化的価値を高めています。

 

1階の応接室の外側。妻壁部分のタイルが美しい。外からでは見られないが応接室外側ベランダにも同系統の見事なタイルが貼られていた。

 

門の先、右が「離れ」、左に日本庭園がある。

 

2階の窓は竣工当初の大きな「面取りガラス」

光の入り方が綺麗だったが、右側の1枚の反射にみられるように完全な平面でないところにも味わいがあった。

 

ちなみに庭は、初代が徳川家斉(十一代将軍)の江戸城の御用庭園師だった庭師・四代萩原平作が手掛けている。

 

隣の緑小学校側から見た2階部分。入母屋屋根にわざわざ三角の妻がついている複雑な形だった。

 

建物は施主と大工棟梁とのコラボレーション作品だった。建築期間3年という異例の長さは、鉄道熱中人が模型を作るように、2人が話し合いながら楽しんだ幸せな時間だったのではないか、ということを見学しながら感じた。

 

左側の建物はかつての従業員宿舎だったとのこと。さらに左が工場だった。

 

こちらの文化庁のサイトにも紹介がある。

照田家住宅主屋 文化遺産オンライン

 

企画・解説いただいた御担当のみなさま、照田家のみなさま、貴重な体験をさせていただいて誠にありがとうございました。