よく晴れた秋の日の昼、煉瓦タイル貼りの見事な大建築を見に荒川区へ出かけた。
旧三河島汚水処分場喞筒場施設(喞筒は漢字の読みはソクトウだが「ポンプ」と読ませる)は、国の重要文化財指定を受けている日本初(大正11年稼動)の近代下水処理施設。
休館日は火・金と年末年始。それ以外の日は一般に公開されている(無料)
見学には予約(電話)が必要だが、このときは午前の電話で午後からの見学ができた。
はじめて降りる町屋駅で都電荒川線に乗り換えて2つ先、荒川2丁目駅で下車。
線路に接する広大な三河島水再生センターの一画に目指す施設があった。
南側へ200mほど歩くと煉瓦タイル張りの正門があった。
門はその位置が元から動いているので重文指定が受けられなかったそう。
守衛さんに見学の旨を伝えて、左の白い建物へ向かった。見学はツアー構成になっていて所要時間は1時間ほどになる。
はじめにレクチャールームでビデオを見て、施設概要の説明を受ける。
公式サイト国指定重要文化財旧三河島汚水処分場喞筒場施設の概要がわかり易いが、いただいたポストカード(東京都教育庁発行)の解説がよくまとまっているので下記に転載。
旧三河島汚水処分場喞筒場施設は、隅田川中流に位置する、我が国初の近代下水道処理施設です。東京市区改正事業の一環として東京市技師米元晋一を中心に建設が進められ、大正11年(1922)に稼動し、平成11年に停止するまでの77年間、都民の生活を支え続けていました。現在は見学施設として公開されています。
下水処理の手順は、まず市街地に埋設された管渠(かんきょ)を自然流下してきた下水を、阻水扉の開閉によって制御しつつ処理場に流入させます。次いで沈下池で沈殿物を浚渫し、また濾格(ろかく)室で浮遊物を掻揚げ、これらを土運車(インクライン)で搬出・廃棄します。濾格された処理水は、さらに水量を測る量水器室や導水渠を経て喞筒室で揚水され、次の処理過程である沈殿池に運ばれました。
ここでは阻水扉室から喞筒室までの地下構造物を含む諸設備と、門衛所などが保存されています。特に喞筒室は、鉄骨鉄筋コンクリート造で、屋根を鉄骨トラスとし大空間を実現し、関東大震災以前に建てられた建造物としても貴重です。
現在も稼動している三河島水再生センターの全体図。敷地は約20haなので浜離宮(25ha)の5分の4くらい。
見学施設の奥の本体施設では、今も台東区、荒川区、文京区、豊島区のあたりの約40km² の下水を処理している。
重要文化財指定施設は水処理センターの南端にあるが、平成11年まで稼動していた。
下は門衛所の前の説明板。
上記左上図のアップ。下水は左(南)から送られ、中央の沈砂池で汚泥を取り除き、その右の量水器室で流量を計測し、流量に従ってポンプ室のポンプ稼働台数を決めていた。
こちらが2つの阻水扉室。導水管を2つ造ることで、片方を止めてメンテナンス作業ができるようにしている。
東側の阻水扉室で、真下にある扉の開閉を操作する。中に油圧装置があるが巻き上げ機を使っていた時もあった。
解説員の方が持っていた、地下の分岐の写真。奥に「阻水扉」が見える。正面壁は圧力がかかるので石造りになっている。
上記の背面の写真。現在は閉じられている壁の向こうでトンネルは左方向に迂回し、新たなポンプ施設へ向かっている。
ポンプ室建物の隣にあった下水管の輪切り。煉瓦の上面は高温で焼かれて硬くつるつるになっている。
次に沈砂池へ階段を降りる。
2つある沈砂池のひとつ。使用時はもう少し深かったとのこと。奥が濾格室で浮遊物を取り除いて引き揚げた。
振り返って阻水扉側。
排出口アーチや内壁には切石が積まれていた。
かつてはこの池に沿ってレールが敷かれ、重機で土砂を掻き揚げてトロッコに積んでいた。
トロッコはインクラインで数メートル上へ運ばれていた。
インクラインのあった傾斜路。
蓋の下にレールが一部保存されていた。
元の場所に残してあるのだそうだ。
傾斜路の上にあるインクラインの機械室。現在は中はカラ。
屋外で沈んだ土砂を掻き揚げていたので「匂い」がどうだったのかが気になったが、その時代は汲み取り式トイレがほとんどだったのだそう。
そして、赤煉瓦タイルが張られた喞筒室(ポンプ室)へ。
説明板があった。建築は、セセッション様式とあった。
南側に張り出す東西両翼をもつ左右対称の喞筒室の立面は、規則的に並んだ柱型と、張り出しの少ない軒によって区画されています。その外観は、垂直線と水平線を用いた平坦な面で構成されており、当時国内で流行していたセセッション様式の影響が見られます。
喞筒室は、屋根を支える下部がアーチ型を呈する変形キングポストトラス鉄骨による大空間となっています。10台(当初は9台)のポンプが設置され、地下は流入渠、喞筒井接続暗渠、喞筒井などがあります。
左翼側は2階建てで受電室、配電盤室、蓄電池室などが配置されていました。
右翼側は3階建てで事務室、倉庫、便所などが配置されていました。
堂々とした赤煉瓦建物。煉瓦タイルでは装飾品であって構造的には必要ないものだが、施設を造った人々の情熱や気概が込められているように感じた。
事務室や倉庫のあった右翼側。
左側。奥が電気設備のあった左翼。
喞筒室建物に入る前に、ここから階段を降りて地下導水路内部を見学したがこれは次回で。
大型ポンプが並ぶ喞筒室内部。下から水をくみ上げて次の処理工程に送っていた。
迫力のある大きなポンプ。
荏原製作所製だった。
青い機械がモーターで、ポンプの羽車を回転させる。
初期のポンプは当時世界初の国産技術が使われていた。
流量計の受け側の機械、ヴェンチュリーメーター。 繊細な歯車が絡み合う芸術品のようだった。
その解説板。
右翼部分の2階は資料室。
外壁の煉瓦タイルは「品川白煉瓦株式会社」製だった。
復原に使われている煉瓦タイル。
煉瓦を製造する際の型も展示されていた。
明治末〜大正初期の東京市下水設計図。右下の緑の部分が三河島処分場受け持ち区域。細い赤い線の先が三河島処分場で居住エリアとは離れていた。
当時の三河島汚水処分場建設予定地。水田地帯だった。
2階からの喞筒室の眺め。天井の鉄骨アーチのデザインが、全体を軽やかな雰囲気にしているように感じられた。
ポンプや変圧器の搬出入や照明ランプの取り替えに使われた揚重機(天井クレーン)
当初は人の手で(ウィンチで)動かしていたそうだ。
都市のインフラを支えた人々の知恵と意気込みに触れることができた。
この日は写生をしている方が何人がおられた。
つづく。