前回のつづき。
初台のオペラシティからの帰り道、市ヶ谷駅で地下鉄を乗り換える時に「南北線」の表示があった。
夕方までにまだ時間があったので、気になっていた赤羽岩淵の水門へ行ってみることにした。
国道122号(北本通り)沿いの地下鉄出口。122号はこの出口の近くの「赤羽」の交差点で北に鋭く曲がり、荒川を越えて岩槻街道になり、桐生、日光へと続く。
通りを渡り、荒川土手との間の住宅街の小道を通ったら、昭和風の店先があった。
地図(Google)に記載のない神社。門がしまっていたのでプライベートなものか。
見事な大谷石の蔵のあるお屋敷があった。
その先、荒川土手に近い場所に鎮座する八雲神社。
説明板には「江戸時代に徳川将軍が日光東照宮に参詣する際に利用した日光御成道の第一の宿場として栄えた岩淵宿の鎮守社でした」とあった。
社殿は1mほど周囲より高い場所にあった。
大きなスダジイ。公孫樹も大木もあった。
神輿の格納庫が並んでいた。
神社の前の道。微妙なカーブと玉石垣が昔の雰囲気を残していた。
堤防の上へ向かう。
荒川と平行して流れる新河岸川(しんかしがわ)があった。
新河岸川の下流方向。
このすぐ先で岩淵水門を経てきた荒川の一部と合流し、隅田川になる。
土手を越えれば荒川。あちこちに彼岸花が咲いていた。
堤防に上がると、大きな荒川が広がっていた。対岸は川口市。
水上スキーをする人も。
こちら岸は、お祭りかと思われるほどバーベキューで賑わっていた。
肉の焼けるにおいの中を川面へ降りていった。災害時の物資輸送に備えているようだ。
昭和22年のカスリーン台風時の水面の位置。現在の堤防はそれより4m近く高い。
旧岩淵水門の朱色が、バックの青空に映えていた。
扉の先には、現在の水門が。
説明板もあった。
旧岩淵水門
昔、荒川下流部分は現在の隅田川の部分を流れていましたが、川幅がせまく、堤防も低かったので大雨や台風の被害をたびたび受けていました。そのため、明治44年から昭和5年にかけて新しく河口までの約22kmの区間に人工的に掘られた川(放水路)を造り、洪水をこの幅の広い放水路(現在の荒川)から流すことにしました。
現在の荒川と隅田川の分かれる地点に、大正5年から大正13年にかけて造られたのがこの旧岩淵水門(赤水門)です。その後旧岩淵水門の老朽化などにともない、昭和50年から新しい水門(旧岩淵水門の下流に造られた青い水門)の工事が進められ、昭和57年に完成し、旧岩淵水門の役割は新しい岩淵水門(青水門)に引き継がれました。
長年、流域の人々を洪水から守り、地元の人たちに親しまれた旧岩淵水門は現在子どもたちの学習の場や人々の憩いの場として保存されています。
荒川放水路とともに近代化産業遺産の指定を受けている。
東京都選定の歴史的建造物にも。
設計者は青山士、建築年は大正13年(1924)
役割を終えても手をかけて保存されている様子だった。
下流方向には現役の青水門。左手側は土手が切れて中之島のようになり荒川とつながっている。
水門の先から隅田川。
月に一度、ここまで遡る水上バスが出る。一周すると9時間だが区間乗りも出来るので乗ってみたい。
いちにちゆらり旅 | 運航コース・料金・時刻表 | 水上バスで行こう! [東京都公園協会]
”中之島”にあったオブジェ。青野正という方の「月を射る」
旧岩淵水門の隣に、荒川知水博物館があった。入場無料。
荒川や荒川放水路について詳しく学ぶことが出来る充実の施設。
こちらは河口から源流部の甲武信ヶ岳までの173kmを空から辿ることができる。
くもじいのような寄り道はなく、3分間で。
明治中期の地図に放水路を重ね合わせた大きな展示。地図はやっぱり大画面で見るのが面白い。
荒川放水路と旧岩淵水門の工事を指揮・監督した青山士(あきら)氏の展示が充実していた。5分ほどのビデオがよかった。土木の方だが内村鑑三にも学んでいる。
青山氏の私物の展示は撮影禁止だった。
2015/9/20~11/15で企画展「1910年 洪水の記録 荒川とセーヌの洪水」のパネル展示もあった。
荒川放水路建設のきっかけとなった洪水が起こった1910年(明治43年)にはセーヌ川でも「世紀の大洪水」が起こり、オルセー(当時は駅)も水没した。
このほか資料館には放水路建設時のジオラマや、水の流れる流水模型、浸水シュミレーションなど興味深い展示があった。
こちらは周辺の散歩案内図。川口も本一通り周辺が面白そうだった。
帰り道、気になる造り酒屋があった。
小山酒店は東京都区内唯一の酒蔵だった。店の裏手の工場。
江戸の地酒「本格辛口」を購入した。
店の隣には「岩槻街道岩淵宿問屋場」の石碑があった。
街道沿いには築地にあるような看板建築も。かつての賑わいが感じられた。