前回のつづき。
佐渡奉行所を見た後に、丘を下って製錬所の駐車場横にある相川郷土資料館を訪れた。
建物は旧御料局佐渡支局時代のもので、国指定史跡にもなっている。
建物を撮っていなかったので下記で。
サイトには博物館パンフレットのpdfも添付されている。
https://www.city.sado.niigata.jp/sadobunka/denbun/museum/aikawa/aihaku1.pdf
上記pdfにあるが、資料館の隣には相川技能伝承展示館があり、無名異焼の陶芸体験や、裂織り(さきおり)の機織り体験ができる(要予約)
郷土館前にはその陶土らしきものがボンと置かれていた。
郷土館は入場料300円。他の入館者はいなかった。
さまざまな資料が900点、と数多く展示されている。
誰か居る、と思ったら「遊女」だった。鉱山での展示と対のように?
自分にとって佐渡は流刑地という先入観があったので、その鉱山労働者は「働かせられていた」と思い込んでいたが、佐渡に来て、実は江戸時代の始まりと同時のゴールドラッシュで一儲けしようと人が集ってきた部分が大きい、というイメージに変わった。
上記の相川音頭を検索すると平家物語的歌詞が出たが、下記の理由だとわかった。
資料館を出た後は、相川の古い町並みも見たかったが、佐渡歴史伝説館も見たかったので、真野地区へ向かった。
途中、目の前に真野湾が広がる場所で遅い昼食。
海岸には一部砂浜もあって、海水浴客も「1組」あった。
佐渡歴史伝説館に着いたのは16時を回っていた。
こちらも人形(ロボット)芝居形式になっていた。
はじめに迎えてくれたのは順徳天皇第一皇女、慶子女王(1225~1286)
順徳天皇(後鳥羽上皇の第3皇子:1221年、承久の乱により24歳で北条泰時により配流、1242年当地で没)や、日蓮上人(1271年に北条時宗により配流。~1274年に赦免)、世阿弥(1434年、72歳で足利義政により配流。~1441年に赦免)の3人の物語の場面や、佐渡に伝わる伝説の紹介がメイン。一つが終わると自動で次の場所が動き出すのでそれに合わせて見て回る(所要時間40分ほど)
3人の物語にくらべ、伝説の方はとてもあっさりとした展示(クライマックス場面のみ)だった。
資料館からおみやげ屋館に向かう途中、手入れの行き届いた庭園が見えた。
おみやげ屋さんには通常16時ごろまではジェンキンスさんが店に出られているとのこと。一歩違いだった。2004年に帰還されたときの資料展示もあった。
佐渡は金だけでなく銘石の産地でもあり、数十万円の「赤玉石」が足元に置かれていた。
いくつかお土産を買った後は、資料館の隣に位置する真野宮へ。
境内が閉まるぎりぎりの時間(17時)だった。
社殿は大正9年竣工、昭和17年の700年祭に、鳥居、神橋、神門などが新設されて神域が拡張された。廃仏毀釈前は真輪寺という寺だった。
ここが順徳天皇が崩御された場所になる。
神門から拝殿。大きな狛犬があった。
参拝後、拝殿を側面から。
社殿右奥には順徳天皇行在所跡があった。
ふと右の石垣の角を見ると、四角い穴が開口しているではないですか。
思わず駆け寄ってしまった。移築された石室だった。
説明板から。
真野町三貫目沢 西古墳(えぞ塚)
佐渡の古墳は真野町大須付近に25基ある。近年の開発で多く破壊されるのを恐れ、真野宮境内に一基を移築したものである。
佐渡の古墳は横穴式石室の円墳である。
出土器は人骨・直刀・鉄鏃・土器などがある。6世紀なかば(えぞと呼ばれた人達がこの地に渡来し築かれたという。
最後の一文が気になった。
なかなか大きな石組。
クモの巣が多く外から見るだけとした。
思わぬ出会いだった。
境内を出て神橋を渡ると、真野湾が見えた。
神門を出たところにあった白山神社。丘の上に続く石段に惹かれてお参りした。
厳かな空気が漂っていた。眺めはなかった。
つづく。