前回のつづき。
史跡佐渡金山から続く道の突き当たり、相川の町や海を見下ろす海岸段丘の上に佐渡奉行所があったので立ち寄った。
江戸期のお役所なのでお白州もあるのかな的なつもりで入ったら、金の製錬や小判の鋳造・貯蔵を行う「造幣所」の遺構だった。
佐渡は江戸時代初めから幕府が直接管理する天領となり、慶長8年(1603)には佐渡奉行所(当時は陣屋)が置かれた。
奉行所内には行政部分(御役所)と住居部分(奉行の御陣屋と向御陣屋)に加えて、直営工場(勝場:せりば等)があった。
建物は5度の焼失・再建を経て昭和4年(1929)に国史蹟に指定されたが、昭和17年(1942)に建物(江戸期)を焼失した。
平成6年に再び国の史跡として指定され保存整備事業が始り、平成12年に安政5年時の建物として復原がなされた。
正面玄関には葵の御紋。ボランティアガイドの方の案内のおかげで、興味深い話を聞けた。
中には数多くの畳部屋があった。
かつては復原建物の後ろに、その倍の広さの陣屋が広がっていた。
お白州もあった。むしろに座って気分(?)を味わうことができる。
いくつかの部屋では金の製錬についての資料展示もあった。
こちらは「灰吹き法」で使用された鉛。奉行所敷地の深さ1.1mの穴から172枚発掘されたうちのひとつで、国指定の重要文化財。持たせてもらったが41kgは非常に重かった。
灰吹法(はいふきほう)の説明板。
石磨で粉にして取り出した金銀鉱石に鉛を加えて灰の上で加熱し液状の合金とし、ふいご等で空気を吹き付けて不純物や鉛を酸化させ灰に滲みこませて金銀だけを残す、という仕組み。
朝鮮から伝わった製錬法で、佐渡には天文11年(1542)頃に鶴子銀山で使われ始めたとのこと。
まさに錬金術。
一通り屋内を見学したあとは、隣の一段下にある建物に向かった。
こちらがその建物。
なんとここは、江戸期の製錬過程を体験学習できる施設になっていた。
梁から下げた棒を振り子のように使って石臼を回す道具。
粉々にした鉱石を含んだ水を、手ぬぐいを敷いた斜面に流し、目視で金を取り出す仕組み。
敷地内からは製錬に用いた竈の跡も29基見つかっている。正保4年(1647)の大火層の下にあり、当初から延金(小判の原型)造りを行なっていたと考えられる。
展示物はレプリカ。
こちらが施設の全体図。
この場所の丘の下に明治期の巨大な産業遺産の北沢選鉱場・製錬場があるが、幕末まではそこに相川の町が広がっており、製錬の中心はこの奉行所内だった。
坑道見学の付属資料館ではジオラマ模型で見た過程が、ここでは現物に復原されて体験もできる。佐渡金山を見学される際は、ぜひ奉行所にも立ち寄られることをお奨めします。
つづく。