墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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穴八幡宮 東京都新宿区西早稲田

前回のつづき。

早稲田大学から戸山公園を目指して早稲田通りを歩いていくと、穴八幡宮への入口があった。

 

坂の上側からだったので拝殿の横側からのアプローチになった。石の蔵が並んでいるのは祭りの山車か。

 

割と新しい立派な拝殿だった。内部は撮影禁止だった。

 

拝殿前の、根が立派な巨木。

 

参道沿いに布袋様。

 

朱色がまぶしい光寮門。

 

門から社殿。

 

門から反対側は急な石段になっている。

 

石段下の鳥居から。

 

そばには巨石による石組があった。

 

綺麗な芝生スペースも。その先には放生寺があった。

 

最下段、馬場下町の交差点から。

 

 穴八幡宮の御由緒。

 

下記は穴八幡宮 - Wikipediaの「歴史」の項より。

社伝によれば、1062年(康平5年)源義家が奥州からの凱旋の途中、この地に兜と太刀を納め、八幡神を祀ったという。

1636年(寛永13年)ここに的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。

1641年(寛永18年)宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開いていると横穴が見つかり、中から金銅の御神像が現れた。掘った人は「芽出度い」と大喜びし、以来、「穴八幡宮」と称するようになった。3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。

歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。

江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。

1945年(昭和20年)の東京大空襲で、建物の多くを焼失。

1961年(昭和36年)御鎮座900年事業として本殿再建工事を開始。

1989年(平成元年)引き続き幣殿、拝殿工事を行う。

1998年(平成10年)、隨神門を室町時代の様式で再建す、なお境内全域を古書を基に未だ再建途中。

また冬至の「一陽来復」のお守りでも知られる。お守りを受け取れる期間は毎年冬至の日から翌年節分の日までであり、冬至の日は特別に午前5時から受け取る事ができる。

 

さらに次の項「文化財」を見ていくと、毎年体育の日に戸山公園にて高田馬場流鏑馬 が奉納されているとあった。

 

同じ文化財の項の最後の一行に驚いた。

一帯は前方後円墳である。

!!!

ということは「穴」は横穴式石室であったか(出典や根拠は記されていなかったが)

 

調べてみると下記の方のブログがヒットした。

古墳横穴及同時代遺跡探訪記録帳: 西早稲田&飛鳥山

穴八幡宮が古墳かどうかはわからなかったものの、かつて早稲田大学がキャンパス拡大をする前の1960年代初めまでは「高田富士」という富士塚が「富塚古墳」の上に増築された形で存在し、その後に富士塚は近くの甘泉園の境内に「富塚古墳」として移築復元されているとのこと。石室石材らしき写真もあった。

これは再訪して確かめないと・・・