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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

稲荷神社(拝殿・富士塚・大鯨の御社)~善福寺 浦安市当代島の旧跡歩き

千葉県の寺社、遺跡

前回のつづき。

船圦緑道に面して稲荷神社の鳥居があった。

 

民家の間の参道を進んでいくと社殿が見えてきた。

 

立派な社殿、鳥居、そして玉垣。

 

20年ほど浦安市に住んできたが初めて訪れた。夏季五輪と同じタイミングで開催される盛大な浦安三社祭りにおいて、神輿が出る三社のひとつなのだそうだ。

神社のサイトによると、御祭神豊受大神元禄2年(1689年)に(武蔵國小岩村 現東京都江戸川区小岩町)の善養寺から移し祀ったものといわれていて、明治時代に正式な当代島の鎮守になった後、昭和19年11月27日の空襲で破損、昭和34年に再建されたが地盤沈下等で昭和58年に大規模な地盛り等の境内整備が行われ、昭和59年に現社殿に建て変わった。千葉県浦安三社 稲荷神社

 

 社殿に向かって左側にも鳥居があった。

 

 

こちらは浅間神社

 

溶岩で出来た富士塚があった。

 

説明板もあった。

富士塚

頂上に、浅間神社を祀る、泥土を盛った小さな山があったが、昭和4年(1929)6月富士講では、氏子達の協力を得て、畑の土を運び、その上に盛り上げ、各戸から集めた石を積み重ねて、富士山を模した塚を築き、頂上に此花咲耶姫命を祀った石造りの浅間神社を安置し、山の中腹には中道まわりを造り、その途中に三柱霊神を祀った。

鳥居は神明造りとし、山裾の石碑は改築造を記念して建立されたものである。

毎年6月30日のお祭には、富士講の人達は、江戸川で水行をとり、体を浄めたあと、真っ白い行衣に白い帯を締め、手甲、脚絆で身を固め、菅笠をかぶり、金剛杖とりんを持って、六根清浄と唱えながら神社に参拝して、翌7月1日富士山の山開きに出発する。

盛況を極めた富士登山も昭和初期には次第にさびれ、今日ではほとんど影をひそめている。

平成2年3月 浦安市教育委員会

 

複数の登山口から上れるようになっていた。頂上からの眺め。

 

 社殿に向かって右側には「大鯨の御社」が祀られていた。

 

よく磨かれた説明板。

大鯨の御社の由来

稲荷神社境内末社内に大鯨と記された小さな石碑がある。碑の左側に高梨源八、西脇清吉と名が刻まれている。

昔日の面影は今は無く、湾奥の浅瀬は埋立て造成されビル群やディズニーランド公園と様変わりしているが海であった頃の実話であり明治8年の出来事。

現在の船入緑道は船入川と呼ばれた川で多くの木造漁船が繋がれ桟橋近くは漁民の社交場ともなっていた。船入川より江戸川に出て引汐を利用して櫓を漕いで河口へ当時は水門や護岸堤も無く岸辺に葦が繁茂して春ともなると「ヨシキリ」が啼き、鷗が飛びかい漁師は追風があれば帆を張って川の流れにゆだねて海へ、貝や魚を採って日々の暮しの糧を稼ぎ生活を営んでいた。東京湾に鯨がいたとは現在では思いも及ばぬ事ではあるが水が澄み自然環境が好く小魚が多く鯨の餌が豊富だったのでしょう。

河口から海へ梢暫く進むと葛西沖(三枚洲)と称する好漁場があり、漁をしようといつもの如く日の出前当代島の住人高梨源八氏と西脇清吉氏両名が連れ立って漁場へ三枚洲へ近づいていくと、洲の上に大きな黒い大魚が暴れているのを見つけ近寄ってよく見ると絶えず噂にのぼっている話題の主鯨そのものが浅瀬の汐留まりにとり残されている。両氏は驚きと興奮で一瞬身体が硬直したそうで梢あって気を取り直し大格斗の末生捕りに成功し意気揚々と興奮覚めやらずご帰還。村中が知らせを聞いて大騒ぎとなり老若男女が我先にと見物に来たそうです。当時の価格で金弐百円也の値で売れ大金を手中にした両氏はすっかり有名になり何処へいっても英雄扱い、大鯨捕獲劇の話題でもちきり仕事が手につかず、終止符を打つ為に色々考え年輩者の智恵を拝し神社末社に大鯨の碑を奉納し祀ったとのことです。当時は東京湾奥迄餌を追って迷い込む鯨があり話題が絶えなかったそうです。

 

 

稲荷神社参道入口から浦安駅側に向かい、最初の信号を右に行った場所にある善福寺。

 

境内にはいくつかの史跡がある。

しゃがんで撮った「サバ大師」 右手にサバを持っている。

以下は浦安市教育委員会発行の「浦安◎文化財めぐり」の29頁、善福寺の「サバ大師」の項から。

善福寺入口右側に、右手にサバを持つ旅僧姿の石像があります。これは、サバ大師という石仏で、次のような伝説があります。

大師が室戸岬高知県)に向かうため、鯖瀬(徳島県海部郡海南町)の難所(八坂八浜)を旅していたときのこと、塩サバを馬に運ばせている一人の商人がいました。大師はサバを一匹求めましたが、その商人はばかにして笑い通り過ぎました。そこで、「大坂や八坂坂中鯖一つ大師にくれで馬の腹病む」と詠むと、馬が苦しんで倒れました。商人は無礼をわび、サバを献上すると、大師が、「大坂や八坂坂中鯖一つ大師にくれて馬の腹止む」と読み直したところ、馬は何もなかったのように、元気になったということです。

このサバ大師の伝説は四国のほか、九州、関東地方の沿岸部から宮城県あたりまで分布し、この伝説に基づいて各地に石仏が建立されています。浦安では善福寺のほか、東学寺にもサバ大師の石仏を確認できます。また善福寺のサバ大師には、次のような話も伝わっています。

明治時代中期、不漁が続き、生活に困った村人は、流行り病や眼病にかかってしまいました。そこで、村人が大師様に念じたところ、病はたちまちに治り、大漁が続いたということです。とりわけサバの水揚げが多く、このことを大師のご利益と確信し、大正3年(1914)5月、サバ大師の像を当代島の井上藤太郎、塩田国太郎が建立、三角石匠田中岩太郎が刻みました。その後、大師像はつくりかえられ、現在の像は、昭和41年(1966)年6月、井上静雄、塩田實が再建、三角石匠田中初男が刻んだものです。

 

六地蔵。昭和に初めに海で遭難した6人の漁師を冥福を祈るため建立された。

 

宝暦6年(1756)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)は、高さ2.5m。

 

田中十兵衛の墓

 以下説明板より。

田中十兵衛墓

十兵衛は、天正・文禄(1573~95)頃に生まれた人と推定され、俗に内匠(たくみ)十兵衛といわれ、江戸小岩村から当代島村に移住し、同村の開墾主といわれました。十兵衛は常に公益を第一に善行に富んだ人で、村人の信望が厚く、特に土木技術に優れていたと伝えられています。

昔、当代島村から八幡村(現市川市)にかけては、土地が低いために、たびたび水害が起き、稲の生育には適さない場所でした。このような状況を解決するために、十兵衛は元和6年(1620)に欠真間村(かけまま)源心寺(現市川市)の大檀那狩野条天(新右衛門)とともに、幕府の許可を得て、高所の囃子水(はやしみず、現鎌ヶ谷市)から真間川を経て、低地の当代島まで、灌漑と排水を備えた水路を開削しました。この水路は、開削した内匠十兵衛、浄天の名をとって、「内匠堀」「浄天堀」と呼ぶようになりました。

墓碑は、十兵衛の死後不明でしたが、後年村民によって発見され、その功績を後世に伝えるため、善福寺に建立されたといわれています。

平成25年(2013)8月 浦安市教育委員会

 

石碑がびっしり並ぶ無縁塔もあった。

 

この善福寺も初めて参拝した。

同じ市内だが、説明板にあったのは初めて聞く話ばかりだった。

つづく。