前回の続編。
ネットを見ていたら、アパートのあたりに台地を上り下りできるエレベータがあることを知ったので、再び現地へ行った。今回は田町駅からのアプローチ。
札の辻交差点から駐車場の奥に、マンションの廃虚が見えていた。
手前は広大な駐車場。第一京浜側から見ると台地上に聳え立っている。1957年の竣工時は、まだまだ広大だった東京湾が部屋から見渡せたはず。
台地下に聳える43F建ての住友不動産三田ツインビル西館。
その敷地内に台地上に続くような階段。
途中でエレベータ塔との分岐があった。
そのまま、次第に左右が狭くなる階段を登りつめると、大きな石で行き止まり。
元和キリシタン遺跡との説明板があった。
都旧跡 元和キリシタン遺跡
所在 港区三田3丁目7番
指定 昭和34年2月21日
徳川三代将軍家光が元和9年(1623)10月13日、江戸でキリシタンを処刑したことは徳川実起によって知られている。処刑された者はエロニモ、デアンゼルス神父、シモン、遠甫、ガルウエス神父、原主水ら50人で、京都に通ずる東海道の入口にある丘が選ばれたとパジェスの「日本キリシタン史」にあるが、その他は恐らくもとの智福寺のあった西の丘の中腹の辺であろうと考えられる。その傍証としては智福寺開山一空上人略伝記にこの地が以前処刑地で長い間空地となっていたが、そこに寺を建てることは罪人が浮かばれると考えたとあることなどがあげられる。
なお、寛永15年(1638)12月3日にも同じ場所でキリシタンらが処刑されている。
昭和43年3月1日建設 東京都教育委員会
処刑場の跡に智福寺が建ったが寺は1966年に上石神井に移転。1977~2002年まで三田都ホテル(都イン・東京)があり、現在は住友不動産三田ツインビル西館として再開発されている。
古道に沿った丘で、南に亀塚古墳、北に芝丸山古墳があることから、この東急アパートメントの辺りにもかつて古墳があったのではと睨んでいたが、殉教の丘になっていたとは思わなかった。
下記の聖パウロ女子修道会のサイトに詳しいストーリーが書かれていた。
処刑の様子 Laudate | キリシタンゆかりの地をたずねて
原主水について Laudate | キリシタンゆかりの地をたずねて
石のモニュメントから階段下を見下ろしたところ。
見上げると札の辻のビル群。建設中の平面がほぼ三角のビルも住友不動産(仮称・三田ビル)のようだ。
遺跡から小道を斜めに降りて、ガラスの塔へ。誰でも乗れるようになっていた。
陽は落ちていたが、中はまだ暑くて蚊が多かった。
上の階で、扉が開いて見えた風景。
上記の左側(南側)には済海寺が。入口は台地上側で、最初のフランス公使宿館跡になるそうだ。
そして右手(北側)にはビル廃虚。
斜面は鬱蒼とした森になっている。
橋を進んで振り返ったところ。結構高度感が味わえる。
突き当たりは墓地で右折すると正面に廃虚。
竣工して45年、人が去って6年半の「新しい」廃虚。
そこから聖坂へ小道が続いていた。
聖坂側からエレベータへ向かう入口。前回は気がつかなかった。
入口の扉には5時から23時までとあった。周囲に人気がないので夜の一人での利用は気をつけた方がよさそう。
再びエレベータで降りて田町駅へ向かった。
三田ベルジュビルと三田労基署との境の壁(のベルジュ側)が風情のある煉瓦壁だった。
壁の端には芝5丁目35番地の表示。
労基署側はコンクリだったが、一時停止の表示板が激しく錆びていた。