墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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日野オートプラザ・後編 東京都八王子市みなみ野

前回のつづき。

最後に「エンジンの部屋」に入った。

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入口にある、ル・ローン80馬力エンジン 1920年(大正9)製

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以下説明板より。

エンジン本体がプロペラと一体で回るロータリー式の航空機エンジンである。日本陸軍がフランスのグノーム・ローン社からライセンスを買い取って1920年から瓦斯電で生産を始め、1930年まで月産15台程度生産した。これがベースとなり「神風」「天風」など、瓦斯電の名航空エンジンが生まれた。

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さらに詳しいいきさつがパネルに書かれていた。

瓦斯電社長松方五郎は第一次大戦時、突如としてロシア他から大量受注した信管(砲弾の部品)による資金を元に、自動車製造を画策し、指導者として星子勇を技師長として招聘、自動車製造計画を一任した。星子は自動車製造と同時に航空機製造にも手を出した。その理由は「日本は将来戦争に巻き込まれる。その場合自動車産業は必ず航空機生産への転換を余儀なくされる。従って自動車産業に乗り出す以上、常に航空機生産の技術を磨いておかなければならない」という将来展望を見据えた彼の国家観に基づく確固たる信念であった。

星子は1917年(大正6年)、着任するや直ちにTGEトラックの開発と同時に航空機およびそのエンジンの生産も開始した。航空エンジンは軍部が要望したダイムラー、ベンツ(当時ダイムラーとベンツは別会社)、ル・カーン、サルムソンなど水冷縦型、空冷星形各種形式をライセンス生産し、自社開発を念頭においた比較研究を行うと同時に、モーリス・ファルマン6型航空機、甲式3型練習機の生産も手掛けた。展示エンジンは甲式3型練習機に搭載されたエンジンである。

姉妹エンジンとして甲式3型戦闘機用の120馬力型もある。

ロータリーエンジン(おむすび形のピストンが回るマツダのものとは異なる)と呼ばれ、エンジン本体がプロペラと一体で回る。(後略)

 

部分のアップ。1920年、大正9年につくられたもの。

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初風(はつかぜ)ハ11型エンジン 1942年(昭和17年)製

日本海軍はドイツのビュッカーユングマン軽飛行機の性能に注目し、瓦斯電にエンジンのライセンス生産を発注。瓦斯電は量産の不向きさを進言し、新設計されたのが「初風」である。基本レイアウトはオリジナルを踏襲したが、生産技術や粗悪燃料に対応した独自の設計となっている。

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鏡で下から覗けるようになっていた。

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こちらは展示は終了していてパネルだけ。

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1943年(昭和18年)十和田湖に墜落した一式高等練習機(皇起2601年にちなみ「一式」と命名)に搭載されていたエンジンである。青森県航空協会、ウインディネットワーク社および青洋建設者の共同で引き揚げ作業が行われたが、機体が湖底にめり込んでいたため難渋を極め、足掛け3年目の2012年9月、ようやく引き揚げに成功した。エンジンは損傷も腐食も激しかったが、その一基を同協会から借用、慎重な清掃および損傷部の一部補修に約半年を費やしたが、青森県航空協会、航空ジャーナリスト協会等多くの方々の協力を得て展示に至ったものである。(後略)

 

以下は別のパネルより

天風(てんぷう)21型エンジン 1930年(昭和5年)製

瓦斯電が当時主流の一つであったレシプロ航空エンジンを1928年に空冷星型7気筒の「神風(しんぷう)」として独自開発し、1930年には空冷型9気筒の「天風」を開発し、長きに渡り1万2千機余りの機体(俗称「赤トンボ」)に搭載・生産されていた。

 

 現物は青森県立三沢航空科学館に戻っていた。こちらには機体も展示されている。いつか訪ねてみたい。

 

展示されていたときの様子はこちらのサイトに詳しかった。

日野オートプラザで、「天風」エンジンを展示 - グランプリ・モーター・ブログ

 

 

こちらは参考展示、中島飛行機の「光」

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中島「光」エンジン 1936年(昭和11年)製

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以下パネルより

展示エンジンは「天風」と同様の空冷星型9気筒エンジンであるが、ボア・ストロークが多少大きいものであり、中島飛行機が製造したものである(早稲田大学より借用) 

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 「顔」のようなパーツ。これが9頭ある。

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表面積を増やして放熱を促す処理だろう。

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カットして中身がわかるようにもなっていた。

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こちらは航研機エンジンのベース・エンジン

液冷V12型エンジン

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 以下は説明板より。型番名の響きがよい。

 東大航空研究所との共同研究開発により瓦斯電が1938年に製作した航研機は、周回航続距離の世界記録を樹立した。搭載エンジンはこれと同型のV12型川崎BMWハー9Ⅱ乙型で、そのエンジンを長距離機用に大幅改造を実施し、燃費を向上したものである(早稲田大学より借用) 

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錆止めのための油が塗ってあるようで、艶かしかった。

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なんと青森県立三沢航空科学館には航研機の実物大レプリカもあることを知った。

航研機

ますます行きたくなった・・・ 

 

こちらは「ちよだEC型」空冷過流式アルミニウム製ディーゼルエンジン(1937年)

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以下パネルより。後半の説明はちんぷんかんぷんだが言葉の熱が感じられた。

2001年、東京学芸大学の古い倉庫に眠っていたエンジンが、貴重な東京瓦斯電気製エンジンであることが判明した。東京学芸大の敷地(小金井)は研究所で諸兵器の基礎技術の研究機関で、光線、電波、上陸用兵器、軽戦車など広範に取り組んでいた。6気筒が残された倉庫のエンジンは同学、吉尾二郎教授が保管。

軽戦車用に開発されたものと推定される。コンパクトな押し込み冷却方式(100式は吸出し式)で 、シリンダーヘッド、クランクケースはアルミ合金、鋳鉄製のシリンダーバレル(冷却ファン付きシリンダー)は特殊形状のネジでヘッドにネジ込み、焼き嵌めされるが、これは航空エンジンの技術である。

最大の特長は小沢光太郎の発案による円形の中央に突起を設けたトロイダル型燃焼室で、それを2つ合わせにした極めてユニークなものである。

戦車用としてディーゼルエンジンは航続距離が大きく引火性が無いと言う大きな特長があるが、出力の割に重くバルキーであることが欠点(装甲、火力に影響する)である。これをブレークスルーすべく果敢にアルミ、還流式にチャレンジした星子勇以下の先達に敬意を捧げよう。

 

エンジンが並ぶだけであるのに、神像が置かれているような、神聖な空気の漂う部屋だった。 

 

以上一時間近く、日野オートプラザを堪能させていただきました。

都心からは少し遠いですが、一企業内部のことだけにとどまらず、日本の近代化に道筋をつけた実物を目の当たりにして思いを馳せることができる、おすすめの場所だと思います。

 

なお、全国には他にも数多くの自動車ミュージアムがあることを知りました。

 上記には28の施設の案内があります。機会があれば訪ねてみたいと思います。