墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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日野オートプラザ・前編 東京都八王子市みなみ野

 7/11(土)、相模原のギャラリーに行く前に、八王子みなみ野にある日野自動車の博物館に行った。

この博物館のことは最近知って興味を持ったが、中央自動車道の八王子ICから南へ30分となかなか気軽には行けない場所にある上に、日曜日休館、土曜日も奇数週(第1・3・5)は休館(8/8は休館)

知り合いのグループ展「我輩ハネコデアル」展 @ギャラリースペース游 相模原があったので合わせ技で車で出かけた。

 

「日野オートプラザ」は、1996年(平成8年)に竣工した日野自動車21世紀センターの一施設として1997年につくられた展示施設。

無料のミュージアムの他に一般も有料で使える研修施設やレストランがある。


日野自動車は、現在は製品主体がトラックやバスだが、かつては乗用車も、さらに昔は飛行機も手掛けていた。

会社の創業は明治43年(1910)の東京瓦斯工業株式会社に遡り、大正8年(1918)には日本初の自動車生産を開始していた。

沿革 | 会社案内 | 企業情報 | 日野自動車

 

乗用車の「コンテッサ」は、子供時代にカタログで(多分実物も)見た記憶があったので、「再会」できて懐かしい気持ちになった。

  

日野自動車21世紀センターの正面入口。この右方向に駐車場がある。

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まずは屋外展示から。ラリー仕様の「レンジャー」

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下は公式サイトヒストリー | ダカールラリーについて | Dakar | 日野自動車より。

初参戦以来24回連続完走、1997年にはトラック部門史上初制覇。

日野自動車は、1991年に日本のトラックメーカーとして初めてダカールラリーに参戦。最低完走率が20.5%を記録したこともある「世界一過酷なラリー」で、初参戦以来2015年まで24回連続完走を果たしている。
1994年にはトラック部門で総合2位を獲得し、翌1995年も2位の座を手にした。1997年には、トラック部門総合では史上初となる1・2・3位を独占するという快挙を成し遂げ、世界中を驚かせた。その後も総合2位を3回獲得するなど、トラック部門のトップクラスのチームとして活躍を続けている。1996年~2002年に創設された同部門の「排気量10リッター未満クラス」でも7連覇を果たし、その後2年間は同クラスが廃止されたが、2005年大会で再び創設され優勝を果たした。2007年にもクラス優勝し、2010年~2015年にかけてはクラス6連覇の栄冠を手にしている。

 

大きなタイヤで車高を高くしている。トラックで砂漠を走るという「考え」自体が考えられないが。

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 その隣には1961年(昭和36)製のTE11型ボンネットトラック。6.5t積み。

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TE120改型 はしご消防車 1970年(昭和45)製

「改」は日本機械工業(株)が消防架装したことによる。1974年から1997年まで沖縄市で使用され2000年に同市から寄贈された。

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1991年(平成3)製のHIMR(ハイエムアール)バス 

「世界初の量産ハイブリッド自動車」とのこと。中で子供が休んでいた。

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ここから屋内展示。

日野自動車の前身の「東京瓦斯電気工業」が1917年に製造したTGE-A型トラックのレプリカ。

同社が独自に設計・製造した最初の国産量産トラックで、経産省の「近代化産業遺産」にも登録されている。

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丁寧に復元されている。タイヤは固形ゴム。

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ホーンは「パフッ」の手動式。

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木製の囲いが優美。

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 こちらのエレベータで2階にあがったところから展示室。

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エレベータを降りたところの案内板。

左上から見はじめて、最後は丸い吹き抜けの場所へ出る。

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入口そばのレストラン。眺めがよさそうだった。

高尾山までは東に6km強、津久井湖までは南東に5kmほど、浅川の支流い挟まれた台地上に立地する。

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このときは15時を回っていたので閉店。

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 はじめはミニカーの展示コーナー。トラック・バスの街。

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小さい子供も覗けるようになってた。

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ここに係りの方がいて、ミニカーを購入できる。好きなトラックが手に入る?

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最初の展示コーナーは模型中心。

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「ランプ屋から自動車製造業へ」とは、激しい転身。

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1930年(昭和5)製の鉄道省営バス第一号、TGEーMP型バス(ちよだMP型バス)20人乗り。

鉄道省の計画に従い東京瓦斯電気工業が試作開発したバスで、鉄道省営バス第一期路線の岡崎~多治見間の営業用として14台受注した。この車両が省営バスの原型となり、その後、他社でも同様の省営バスが多数生産された。

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その先の吹き抜けには、飛行機の5分の1スケールモデルが飾ってあった。

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 詳しい説明板があった。

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 少し長いがこの会社の哲学が現れていると思うので転載。

航研機(航空研究所 長距離試験機)とチャレンジ精神について

東京瓦斯電気工業(当社の前身)あ、1917年に日本で初めてトラックの設計製作を、1927年には、これも日本で初めての航空エンジンの設計製作を行ないました。

そして1934年、東京大学航空研究所の設計になるこの「航研機」の設計図面の製作及び実機の製造を引き受けたのです。

世界記録を目指す「航研機」の製造は、商業ベースでは全く採算に合わないため、その製造を引き受ける会社が無かった。そこに手を上げたのが瓦斯電でした。

当時の技師長、星子勇は松方社長を説得し、ついに金属機製造の経験もない瓦斯電が「航研機」の製造を引き受けることとなりました。

「航研機」は双発機並みの大きさで、且つ引き込み脚、翼と一体の燃料タンク、ジェラルミン、突起のない鋲(沈頭鋲)の使用など先進的な未知の領域が多く大変な難工事であったと記録されていますが、全社一丸となってこのプロジェクトにあたり、ついに1938年(昭和13年)5月、日本としては唯一の絶対飛行世界記録(周回航続距離11,651km)の樹立に至りました。

瓦斯電が築いた数々の偉業を指揮した星子勇や常に技術のチャレンジを説き、「技術者が新たに発想したものは伝統にとらわれず、先ずやらせて見よ」と先頭に立ちました。

これが星子イズムです。

それには、技術者が勇気をもって手を挙げ、主張すべきは主張することです。

こうして、星子イズムは生きるのです。

 

1938年5月13日AM4:55から2日後の5月15日19:20まで、関東平野の三角コース402kmを29周した。

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パイロットはどうやって2日間過ごしたのだろうと気になった。

 

スバルと中島飛行機の関係はすぐつながるが、日野自動車も飛行機を作っていたとは知らなかった。

 

フライトを記念した切手も展示されていた。

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「星子イズム」とパネルに表記されていた元専務の星子勇氏。

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1884年(明治17)現在の熊本県山鹿市生まれ。兵役、留学を経て33歳で入社。

59歳の昭和19年に「過労により逝去」と書かれていた。

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 つづく。