墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

藤ノ木古墳特別見学 ふるさと納税制度による石室貸切体験レポート 奈良県生駒郡斑鳩町

2015年の春に興味深い案内記事「あなただけの藤ノ木古墳」を見て、直ぐに申し込んで手続きをした。

 

国指定史跡の藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は、奈良県斑鳩町法隆寺の近くにある6世紀後半の円墳。

室内高4m超の大型の横穴式石室は盗掘を受けておらず、1985年~2006年での6回の発掘調査では大刀や鏡などとともに美しい金銅製の馬具や装身具等の副葬品が数多く見つかり、国宝指定のものもある。

普段は閉鎖されている石室は毎年春と秋に2日間ずつの公開日があるが、見学者は千人に上るとのこと。これが貸しきりでじっくり見られるとあれば「行くしかない」。

 

ふるさと納税」は初めての体験で、高額(家族4人分で8万円)でもあったが、7万8千円分は住民税が還付されるはずなのでそれを信じて即申込み。

銀行で入金すると数週間して確認書面と見学可の候補日等の案内書が郵送されてきた。

家族全員で6/28(日)に日程を合わせ、子供たちの要望(初めてのUSJ)も組み込むことに。

東京始発の「のぞみ1号」で行って法隆寺に9:22着、帰りは最終の「のぞみ64号」で東京着23:45。

 

自分にとっては2年前に古墳探訪に目覚めてからの初めての関西遠征であり、非常に有意義で高揚した1日となりました。

日帰りでしたが何ヶ所か回ることができたので、数回に分けてエントリします。

 

斑鳩町のHPふるさと納税のご案内 によれば現在(2015/6)でも受付中です。

5万円以上の寄付で2名、8万円以上で4名が見学できるので、古墳や考古学や歴史に興味がある方には募集があるうちに申し込まれることを強くおすすめします。

 

新幹線は定刻通り新大阪に着き、東海道線に1駅乗って大坂駅へ。ここで大和路快速加茂行きに乗るのに迷ったが(大坂環状線と同じホームに快速が来るイメージがなかったので)、駅員さんに聞いて1番線へ。

103系環状線は色とりどりの賑やかなラッピングだった。

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大阪では女性専用車が終日(休日も含めて)女性専用であることを初めて知った。

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法隆寺駅に予定通りの時間に到着。久々に見るせんとくん

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タクシーに乗って法隆寺の近くにある斑鳩文化財センターへ。800円台。

斑鳩文化財センターは平成22年春にオープンしたばかり。9時~17時で水曜日休館。常設展無料。

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こちらでまず20分ほどのビデオを見てから、いざ出発。係りの方に導かれてセンターの裏(北)200mほどの場所にある古墳へ緩やかな傾斜のある小道を上って行っていくと、水田と接した広場に緑の円墳があった。

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藤ノ木古墳(円墳)の現況は直径約40m・高さ約7.6mだが、発掘調査結果で径約48m、高さ約9mだったことがわかっている。

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セコムで厳重に警戒管理された扉が開いた。

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残念ながら内部撮影は不可。

石室は全長約14m。石棺が置かれた奥の玄室とそこへ向かう羨道の部分から成る。

かつて入口付近に詰まれていた「閉塞石」の山は取り除かれ、羨道内に鉄製の誘導路・保護柵が敷かれ玄室直前まで8mほど進むことが出来る。誘導路の上でも頭をぶつけずに進めるが、玄室入り口の玄門のところで少し頭上が低くなる。
 

下は外部にあった説明パネルから。

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もとの鮮明は写真や実測図は下記のサイトにある。

 http://www.kashikoken.jp/from-site/2001/fujinoki4.html

 

誘導路はそこまでで玄室には入れないが、そこから見る玄室の様子には息を呑んだ。

広々とした玄室には左右、奥、天井に巨石が組まれており、奥にはオリジナルの石棺が当時の位置で置かれている。

その様子は下の写真パネルにあるが、荘厳な雰囲気に満ちていた。

この場で係りの方の説明を約15分、たっぷり伺った。歴史の一端に肌身で触れられる貴重な体験だった。

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石棺は左右ぎりぎりの幅で置かれており、 石棺を置いて土を盛りながら左右の石壁を組み上げて天井板を渡し、後から土を抜いて空間を作ったと考えられている。

 

以下は石室の説明パネル。

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埋葬施設は、南東方向に開口する両袖式の横穴式石室です。全長13.95m、玄室長5.67m、玄室奥壁幅2.43m、玄室最大幅2.67m、玄室最大高さ4.41m、羨道全長8.28m、羨道幅2.08m、羨道中央部での高さ2.38mを測ります。

石積みについては、側壁はほぼ垂直に積み上げており、奥壁は大型の石材を3段に積み上げ、側壁は4~5段に積み上げられています。ただし、東側側壁は比較的小型の自然石を下部に用いて、その上部に大型の石材を用いることから、石材の割れなどが生じ、少しバランスの悪い積み方となっています。天井石には、2~3mの大型の石材を用いています。

石室の床面には10cm前後の礫が敷かれ、その下には幅約50cm、深さ25~40cmの排水溝が設けられており、集水施設を含めた全長は約14mとなっています。

 

石棺のレプリカが文化財センターにある。当初は真っ赤に塗られていた。蓋も合わせて一つの岩から中を刳り抜いてつくられている。恣意的にかどうかはわからないそうだが向かって右の方が幅も高さも大きい。

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上記の説明パネル。

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藤ノ木古墳の家形石棺

横穴式石室の奥壁の手前80cmの位置に、横向きに全体を朱で塗られた二上山産の凝灰岩をくり抜いてつくられた外形が家のような形をした「刳抜式家形石棺」が置かれていました。そして屋根の形をした蓋の傾斜面には、二対の縄掛突起がついています。

石棺の大きさは、底部の長さ約235cm、身と蓋をあわせた高さ(東側)約152cm、棺身の幅(東側)約134cmを測ります。

昭和63年の第3次調査では、石棺内は盗掘などの被害を受けていなくて、埋葬当時の姿のままで残っていました。そして被葬者は17~25歳の男性と、年齢は特定できないのですが男性の可能性が高い二体であるといわれています。

また石棺内には、各種の金属性の玉類、一万数千点を越えるガラス玉などの装身具、冠・履・大帯などの金属製品、四面の銅鏡、玉纏大刀・剣などの刀剣等数多くの副葬品がそえられていました。また遺体を覆っていたと思われる繊維製品なども残っていました。

藤ノ木古墳は、このように6世紀後半の埋葬儀礼を解明する上においてきわめて重要な古墳といえるでしょう。斑鳩町斑鳩町教育委員会

 

年齢のわかる男性が北側(奥)、もう一方の男性が南側(手前)に置かれていたそうだ。

被葬者が誰かは現時点では「結論はでていない」が、藤ノ木古墳-法隆寺iセンター・斑鳩町観光協会のサイトには次のようにある。

現在、「穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)の合葬説」が有力とされています。

その主な理由は、古墳の造営年代が蘇我氏により暗殺された時期とほぼ合っていることや、これだけ の大規模な古墳であるのに、石室や墳丘の一部が雑なつくりであることや、本来ならば一人用の石棺 に窮屈な状態で2体が埋葬されていること等から造営が急がれたと考えられること、そして、他に類のない金銅製の馬具や冠などから当時かなりの権力を有した人物であったと考えられることからです。

しかし、今なお、決定的な遺物が出土していないため、結論は出ていません。

 

藤ノ木古墳の位置は、南北に連なる生駒山地近鉄生駒線が2列に分けた東側の矢田丘陵南端の傾斜地で2km南で大和川になる。2km東にはその大和川に合流する富雄川が流れ、川との間に法隆寺がある。

下記は古墳の南側の水田。

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北側に少しづつ標高が上がっていく。石室は南側に開口。

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石室付近から西側。

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同、北東側。

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受けた説明で最も印象的だったことが、「古墳は守られてきた」のだということ。

藤ノ木古墳は1985年(昭和60)までは墳丘に果樹園のあるほとんど注目されないどこにでもあるような円墳(?)だったそうだが、自分は「たまたま調査したら千数百年人目に触れず眠っていたお宝大発見」だったのだと誤解していた。

実はそうではなく、石室には明かりを灯した跡が残っていたことや、石室入口を発掘した際に、閉塞石の上部に人が入り込めるほどの隙間があったことから、古墳と接するように建てられていた尼寺の住職等が、火事で焼ける19世紀半ばまで密かに祈り守り続けてきた事実があるとのこと。

下の図の丸い部分が古墳(崇峻天皇御廟とある)で、その南にお堂があった。

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以下はパネルの説明部分。

宝積寺

藤ノ木古墳周辺に寺院が存在したことは、古くは法隆寺に伝わる平安時代の文書に見られ、宝永2(1705)年には、法隆寺末寺の宗源寺の管理となり「陵山王女院宝積寺(みささぎやまおうにょいんほうしゃくじ)」といった呼び方で記されており、この陵山とは「宝積寺境内図」の崇峻天皇御廟のことを示しています。また「宗源寺過去帳」によりますと、安政元(1854)年に宝積寺が焼失し、その後現地を訪れた伴林光平の「巡陵記事」では、焼失後に田となっていることが記されています。

第5次調査において、宝積寺境内図にある大日堂の推定地からは建物遺構が検出されませんでしたが、第6次調査では、大日堂推定地より北側の墳丘裾部からは、江戸時代末頃の陶磁器などの土器や瓦とともに焼けた壁土等が出土し、安政元年の焼失記事を裏付ける結果となりました。

このように、宝積寺は藤ノ木古墳が約1400年の間未踏掘であったという歴史の中で、特に江戸時代において藤ノ木古墳の保護に重要な役割を果たしたといえるでしょう。

 

係りの方の説明はわかりやすく、素人質問にも丁寧に答えていただいきました。聞いているのは自分たちだけなので他に方の気兼ねなく質問ができたのも「貸しきり」のおかげでした。外で待機していただいた係りの方もいらっしゃいました。

みなさまのお蔭で貴重な体験をさせていただきました。誠にありがとうございました。

 

天気にも恵まれました。

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現地見学の後、文化財センターへ戻り、展示を見学。レプリカ中心の撮影可のスペースと、撮影不可のスペースがあった。

 

被葬者の頭の上部に置かれていた筒状の飾り。

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豊富な馬具。

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大刀や鏡など。6世紀後半という古墳時代後期の副葬品として馬具とともに鏡(前期で見られる副葬品)が埋納される例は珍しいそうだ。

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被葬者の安置状況の説明パネル。ほぼ時を同じくして葬られたことがわかっている。

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廊下には石室の羨道の大きさ・石組みを感じ取れるような工夫がしてあった。

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金銅製鞍金具(前輪)レプリカ。以下3点は許可をいただいて撮影。

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金銅製鞍金具(後輪) 馬体に合わせ幅広になる。

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上記の部分。見事な象の透かし彫りがある。

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実物は文化庁所蔵・国宝。橿原神宮の近くの橿原考古学研究所附属博物館で保管・展示されているとのことなので、次の機会で訪ねたい。

 

あっという間に時が経ち、気がついたら11時。法隆寺駅11:43発に乗らないと子供たち心待ちのUSJツアーに間に合わないので、急いで法隆寺へ向かった。

 

文化財センターから法隆寺へ向かう道脇の水田。北側で家々の先は丘陵だった。

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つづく。