墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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善光寺坂 沢蔵司(たくぞうす)稲荷 東京都文京区小石川

前回のつづき。

伝通院を参拝後、山門を左へ坂道をくだり始めると、道の真ん中に大木があった。

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昨年建てられたばかりの説明板があった。わかりやすく、しかも木に対する愛情が伝わってくる文面だった。

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文京区指定天然記念物 善光寺坂のムクノキ

所在 小石川三丁目18番(ポケットパーク内)

指定 平成25年3月1日

樹高約13m(主幹約5m)、目通り幹周約5mを測る推定樹齢約400年の古木である。第二次世界大戦中、昭和20年5月の空襲により樹木上部が焼けてしまったが、それ以前の大正時代の調査によると樹高は約23mもあった。

ムクノキはニレ科ムクノキ属の落葉高木である。東アジアに広く分布し、日当たりのよい場所を好む。成長が早く、大木になるものがある。

この場所は江戸時代、伝通院の境内であった。その後、本樹は伝通院の鎮守であった澤蔵司(たくぞうす)稲荷の神木として現在に至っている。

樹幹上部が戦災により欠損し、下部も幹に炭化した部分が見受けられるが、幹の南側約半分の良好な組織から展開した枝葉によって樹冠が構成されている。枝の伸び、葉の大きさ、葉色ともに良好であり、空襲の被害を受けた樹木とは思えないほどの生育を示している。

本樹は、戦災をくぐりぬけ、地域住民と長い間生活を共にし、親しまれてきたものであり、貴重な樹木である。 平成26年1月 文京区教育委員会

 

坂の途中にあるので、坂下側からだとより大きく見える。

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小石川町散歩の花崗岩石柱もあった。

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そのすぐ東には「無量山傳通院鎮守 澤蔵司稲荷」の石柱。たくぞうす、という読み方は想像がつかなかった。

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左に入ると珍しい形をした門(鳥居?)

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 参道脇の狐さま。

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説明板もあった。暗くなりかけていたので写真に収めただけで後で画面で読んだ。

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非常に面白い云われが書かれていた。

慈眼院・沢蔵司稲荷(たくぞうすいなり) 小石川3-17-12

伝通院の学寮(栴檀林といって修行するところ)に、沢蔵司という修行僧がいた。僅か三年で浄土宗の奥義を極めた。元和六年(1620)5月7日の夜、学寮長の極山和尚の夢枕に立った。

「そもそも 余は千代田城の内の稲荷大名神である。かねて浄土宗の勉学をしたいと思っていたが、多年の希望をここに達した。今より元の神にかえるが、永く当山(伝通院)を守護して、恩に報いよう。」

と告げて、暁の雲にかくれたという。(「江戸名所図会」「江戸志」)

そこで、伝通院の住職廓山上人は、沢蔵司稲荷を境内に祭り、慈眼院を別当寺とした。江戸時代から参詣する人が多く繁栄した。

「東京名所図会」には、「東裏の崖下に狐棲(狐のすむ)の洞穴あり」とある。今も霊窟(おあな)と称する窪地があり、奥に洞穴があって稲荷が祭られている。

伝通院の門前のそば屋に、沢蔵司はよくそばを食べに行った。沢蔵司が来たときは、売り上げの中に必ず木の葉が入っていた。主人は、沢蔵司は稲荷大明神であったのかと驚き、毎朝「お初」のそばを供え、いなりそばと称したという。

また、すぐ前の善光寺坂に椋の老樹があるが、これには沢蔵司がやどっているといわれる。道路拡幅のとき、道をふたまたにしてよけて通るようにした。

  沢蔵司 てんぷらそばが お気に入り (古川柳)

~郷土をはぐくむ文化財~ 文京区教育委員会 昭和56年9月

 

拝殿参拝後、明かりの点いた門柱に導かれて参道から横に入る道を進んだ。

振り返っての1枚。

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その先へ進むと下りの石段があり、いくつもの鳥居があった。

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おそるおそる下りて、窪地の祠にお参りした。

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もう少し明るい時間帯に来たかったが。

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祠の左側に石で蓋をされた場所があった。

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再度石段を上り、一番奥の祠まで行って振り返ったところ。

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奥は行き止まりになっていた。猫が休んでいたところを驚かしてしまったようで物陰から飛び出していったが、こちらもとてもびっくりして飛び上がりそうだった。 

 

入口鳥居のところまで戻って小さな広場のようになっている場所から。隣接する善光寺の大きな屋根がきれいだった。

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善光寺坂から見た沢蔵司稲荷の入口石段。

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坂下側の善光寺山門はすでに閉じていた。

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山門横にあった善光寺坂の説明板。

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善光寺坂 小石川2丁目と3丁目の境

坂の途中に善光寺があるので、寺の名をとって坂名とした。善光寺は慶長7年(1602)の創建と伝えられ、伝通院(徳川将軍家の菩提寺)の塔頭で、縁受院(えんじゅいん)と称した。明治17年(1884)に善光寺と改称し、信州の善光寺の分院となった。したがって明治時代の新しい坂名である。坂上の歩道のまん中に椋の老木がある。古来、この木には坂の北側にある稲荷に祀られている、澤蔵司(たくぞうす)の魂が宿るといわれている。なお、坂上の慈眼院の境内には礫川(れきせん)や小石川の地名に因む松尾芭蕉翁の句碑が建立されている。

 “一(ひと)しぐれ 礫(つぶて)や降りて 小石川” はせを(芭蕉)

また、この界隈には幸田露伴(1867~1947)、徳田秋声(1871~1943)や島木赤彦(1876~1926)、古泉千樫(1886~1927)ら文人、歌人が住み活躍した。

~郷土をはぐくむ文化財~ 文京区教育委員会 平成13年3月

 

坂を少し戻ってムクノキ方向を見上げたところ。現在の坂名は明治からと「新しい」が、傾斜や曲りの具合が古風な雰囲気。

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善光寺坂の出口、都道436号に出たところ。

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上記写真の背面には、白山通りまで80mほどの短い商店街があった。

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歩道が中央に向かって傾斜していた。かつての川跡か。

このあと都営地下鉄三田線、春日駅から帰った。