墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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西品川一丁目再開発(2015/6時点)

前回2月から4ヶ月経っての「現場」の変化。

初回探訪時(2014/6)からは、ちょうど1年経った。

西品川一丁目 ”一時的廃墟” の街(2015/2時点) - 墳丘からの眺め

 

りんかい線沿いの道路から。朝礼の最中だった。

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工事用地は当初より拡大していて、残っていた隣接地のビル も解体中。

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その解体中のビル(下記の右のビル)を回りこんで台地側へ。

すでに更地になったところには重機が林立。

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台地の斜面沿いにあった建物がなくなっていた。奥に見える台地上の白いビルも解体中。

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台地上へ回りこむ角にあるこの工場(?)も、解体のお知らせが貼られていた。

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回り込むと空が広くなっている。左は妙光寺。

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1年前の様子(2014/6)

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その先数十メートルの、4ヶ月前(2015/2)の様子

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 2015/6現在。写真を撮った場所は異なるが、2つの道路標識(進入禁止と高さ1.8m制限)で位置がわかる。

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上記の分かれ道を右にいったところ。ゆったりとしたカーブ。

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4ヶ月前(2015/2)の午後に、上記場所の先数十メートルから振り返ったところ。電柱と建物の影の位置で多分。

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二股道の間の住宅は、すべてなくなって更地になっていた。

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4ヶ月前は、ところどころ洗濯物が干してある家もあった。(2015/2)

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二股道のどんづまりの高さ制限1.8mの通路。

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上記の位置から右手。

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最も高い位置にあるビルを取り壊し中。

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そのビルのそばの地下道入口は健在だったが残るんだろうか。

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その入口から南側を見たところ。

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上記の道の左手には、かつて下記のような雰囲気のあるアパート等が続いていた(2014/2)

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今は斜面になにもない。

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グーグルマップ(ストリートビュー)にはまだ住宅街が残っている。2つの標識のある二股路から2013/年7月にミニタイムスリップ。

 

こちらは地下通路をくぐって反対側(大崎側)

右の道は下った途中に高さ制限1.8mの通路出口がある。高低差の激しいエリア。

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そのまま住宅街へ。貴船神社に続く道。立派な蔵があった。

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左手への枝道は、ほぼ全て下り坂。階段もある。

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そのまま進んでいくと道沿いに小さな社があった。

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 以下説明板より(太字は自分がつけました)

品川区指定有形民俗文化財

西品川三丁目石造庚申供養塔

庚申供養塔は、庚申信仰のよりどころとして講中が造立したもので、江戸時代始め17世紀後半に各地にさかんにつくられた。本供養塔は、延享4年(1747)の造立である。

庚申供養塔は、農村の都市化の中で、一ヶ所に集められたり、寺院に移設されたりしているものが多い。しかし、本供養塔は、わずかな向きの変更・移動はあるものの、建立以来の位置から大きな変動はない。この場所は、付近の道標の位置などから地元の住民がよく承知している古道の道筋にあたると考えられる。

また、この供養塔の東側には、地元でのかかわりや経過を記した記念碑(紀念碑)が建てられているが、このような記念碑の添えられている供養塔は貴重である。平成17年11月30日 品川区教育委員会

 

正面左上に延享四年と彫られている。

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そのまま道は大崎中学校に突き当たった。海抜22.5m、台地の端にあたる。

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グーグルマップを見ると、西品川一丁目の妙光寺前の坂道から標識のあった二股道の右側の道(おそらく再開発でなくなる道)は、そのまま横須賀線(新幹線)を越えて貴船神社前に道につながり、 庚申供養塔の横を通り、大崎中学校の中を通り抜けて「レジデンス戸越」の裏手から百反通りにつながり、桐ヶ谷に抜けていたのだと思われる。

台地の端にそってゆるくカーブする気持ちの良い「古道」だった。

 

大崎中学校そばの公園には巨石を模した遊具があった。

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百反通りに近い芸術的な一棟。現役の塾のようだった。

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