墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

四本木稲荷古墳(神社) 東京都北区滝野川3丁目

前回のつづき。久々の古墳編。

 

北区中央公園文化センターを後にして、石神井川滝野川)にかかる橋を南側に渡った。旧滝野川区と旧王子区が合併して北区となったのは昭和22年。

 

こちらは上流側。グーグルマップで見るとクネクネと蛇行する川だが、川面がかなり深い位置にあるのが印象的だった。

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こちらが下流側でこの先700mほどに音無親水公園があり王子駅で低地に出て、その先で隅田川へつながる。

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かつてこの川は王子で飛鳥山の西側を南に不忍池まで続いていた。

石神井川 - Wikipediaによれば、川が王子から東への流路をとるようになった理由には「縄文時代の自然現象・河川争奪説」と「中世以降の人為掘削説」とがあるようだが、この谷の深さを見ると、縄文期の河川争奪の結果(長い時間をかけて)「王子方向へと流出した新河流は河床を深く掘り込んで峡谷を作った」という北区教育委員会の中野守久氏の説がしっくりくるように思える。

 

川沿いにある紅葉小学校。

北区のサイト・紅葉小学校|東京都北区には「八代将軍 徳川吉宗の時代から、紅葉の名所として、数多くの江戸市民でにぎわい、北斎の浮世絵にも描かれたこの地に、昭和48年9月1日、紅葉小学校は誕生しました」とあった。

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紅葉小学校側からアプローチすると、神社社殿の裏の公園側に出る。

園内には墳丘の一部のような盛り上がりが石垣で保護されてとび出ていた。

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神社敷地の南東側から。

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鳥居をくぐると広くはないが鬱蒼とした境内。狛犬は編み籠で保護されていた。

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境内の鳥居と拝殿・本殿。

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参拝して振り返ると別のアプローチもあった。

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その鳥居を出て道路の向かい側から見たところ。

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再び鳥居に近づいて。拝殿に向かった少し上っている。

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拝殿に向かって左側にある忠魂碑。

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大正6年に「陸軍造兵廠東京工廠火家具製造所一同」が建立した忠魂碑。

「写真と地図でめぐる軍都・東京」 竹内正浩著によれば、黒色火薬を練って製造する際に使われた圧輪の一部が使われている。

「もともとこの地には古墳があったが、製造所拡張で破壊したところ爆発事故が何度も起きた。古墳を壊した祟りではないかということで、場内社として四本木稲荷を古墳跡に勧請し、分社として祀った経緯がある。一造の北東隅にあった四本木稲荷の本社も戦後こちらに遷された」(同書165頁のキャプション)

 

忠魂碑の背面はすぐ道路になる。

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拝殿・本殿のある「墳丘」

・四本木稲荷古墳 円墳 径29m、高さ1m 

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「四本木」の読み方は、いつもお世話になっている埼群古墳館さんのサイトでは「よもとぎ」

北区四本木稲荷古墳 » 埼群古墳館

 

下記のサイトでも「よもとぎ」

四本木稲荷神社|北区滝野川の神社こちらには過去に北区観光HPにあった解説も引用されている。

十条自衛隊駐屯地の東側に、稲荷公園があります。四本木稲荷社はかつてはそこにあったものです。日露戦争のおりに、陸軍の十条兵器製造所があり、工場が拡大されたときにこの地にあった古墳も壊されました。しばらくして火薬の爆発などの事故が何度か起き、死傷者が出ました。古墳を壊したせいではないか、ということになり、工場の人たちが社殿を造り、工場の守り神としました。
ここには4本の大木があったので四本木(よもとぎ)稲荷大明神と名付けられました。戦後工場が解散し、現在の地に移されました。

こちらのサイトでは、「この神社は元々は北方の石神井川対岸の台地上の古墳の上に鎮座していことになり」、つまり「戦前から戦後にかけて、古墳から古墳を渡り歩いて来たという変わった歴史を持つ神社と言えましょう」と解説されている。

 

「北方の石神井川対岸の台地上の古墳」のある「稲荷公園」とは、赤レンガ図書館の向かいの、殉職慰霊碑のあった場所。あそこにも古墳があったとは・・・

 

ちょっと話が複雑になっている感があって、図などで整理しようとしていたら下記のサイトでは別の説明があった。http://2machi.yokochou.com/shihongi-inari.html

四本木は「しほんぎ」と読み、この滝野川3丁目にある神社は明治38年(1905)に陸軍火工兵器廠ができる以前に、王子稲荷神社の古い分社として住民に祀られた社としてすでにあったとのこと。

 

「神社が古墳を渡り歩く」ことはあまりないように思うので、こちらの方が真実味があるように感じる。

 

いずれにしても、昭和になってもその事故が古墳を壊した祟りではないかと考えられるほど、人々が古墳を崇敬する気持ちが残っていた(いる)ことは興味深い。

だからこそ日本には築造後1700~1400年を経た今でも、20万基前後の古墳が残っているのでは。

 

つづく。