3回前のつづき(撮影はスマホ)
子爵品川弥二郎像を見た後、田安門から北の丸公園へ向かった。
お濠を渡る土手は見事な桜並木となっている。並木の左手には昭和館の姿があった。
そのまま進むと田安門(のうちの高麗門)。現在では武道館へ門のようなイメージ。
桜田門と同じく重要文化財を受けている。
こちらも田安門(のうちの櫓門:やぐらもん)
説明板があった。
重要文化財 旧江戸城田安門 昭和36年6月7日指定
江戸城は、長禄元年(1457)に太田(資長)道灌によって創られたとされる。天正18年(1590)徳川家康の居城となり、文禄元年(1592)から大規模な改修が実施され、慶長12年(1607)に天守閣が、寛永13年(1636)に総構(そうがまえ)が完成し、大城郭としての形が整えられた。その後、明暦3年(1657)をはじめ、数度の大火に見舞われるものの、城郭の規模は幕末までほぼ維持された。
田安門は、北の丸北部に位置する枡形門であり、正面の高麗門と、その右手奥の櫓門(やぐらもん)からなる。門の創建年代は明らかではないが、現在の門は高麗門の扉釣金具に残る刻銘から寛永13年に建てられたものであると考えられている。しかし、櫓門の上部は破損のため大正末期から昭和初期にかけて撤去されていたものを、昭和36~41年度の修理で復旧整備したものである。田安門は、江戸城の総構完成当時に遡る現存唯一の建物であり、高い価値を有している。
またWikipediaには下記のよう書かれている。
もともと太田道灌らが江戸城を築城した際に、関東の守護神でもあった築土神社(旧・田安明神)の旧地であり、のち、徳川家康が入府した際に、関東代官であった内藤清成らの屋敷となったため、代官町と呼ばれた場所である。
その後、徳川忠長や徳川綱重らの屋敷を経て、明暦の大火以後は火除け地になっていたが、8代将軍である徳川吉宗が就任してからは徳川氏の御三卿であった田安徳川家が1731年(享保16年)に、清水徳川家が1759年(宝暦9年)に上屋敷を構えるようになった。敷地内には御蔵地や植溜御用地、馬場などもあった。
維新後、明治政府によって近衛師団の兵営地が設置された(現在の東京国立近代美術館工芸館は、近衛師団司令部の建物を改修して利用している)
櫓門横の石垣。
すぐその先が武道館。
日本武道館は公益財団法人でもある。最大座席数14,471席、最高高さ42m。以下は公式サイトより。
天皇陛下の御下賜金のもと、国費と国民の浄財およそ20億円をもって、1963年(昭和38年)10月に着工、工事期間わずか12ヵ月、関係者の昼夜を分かたぬ 奮闘によって、1964年(昭和39年)9月、世界に誇る日本武道の大殿堂が見事に完成(中略)
第18回オリンピック東京大会では、初めて正式競技に採用された日本の国技・柔道の競技会場として、世界各国からの選手と観衆を集め、世紀の熱戦が連日展開されました。
日本武道館建物概要(アリーナ面積・座席表)|日本武道館について|日本武道館
この日(4/27)はポール・マッカートニー公演の前日で、看板のかかる武道館の写真を撮っている方が他にも数名いらした。