墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

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東京都慰霊堂 復興記念館 墨田区横網

前回のつづき。

旧安田庭園の北東側、角を接するようにして横網町公園がある。

が、その接する角の入口は工事で入れず。囲いの向こうの三重塔(慰霊堂の最奥部)もほぼ全面を工事パネルで覆われていた。

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右手に回り込んでいくと、震災児童弔魂像があった。関東大震災で亡くなった東京(市)の小学生は約5000人に上るそうだ。

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囲いパネルにあった横網町公園の地図。公園となる前は陸軍被服廠跡地だった。

関東大震災は、その跡地を東京市が買収して公園の造成を進めているさなかに発生した。周辺からの人々が家財道具を持って集ったため、この地だけで3万8千人が数時間の内に火災旋風で亡くなられた。東日本大震災での犠牲者のほぼ倍の方々が、わずか2ha足らずのこの公園で、とは。人口密集地での災害の恐ろしさをあらためて実感した。

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慰霊堂は工事中だったが、中に入ることはできた。

1930年(昭和5年)竣工。設計は、築地本願寺、大倉集古館、一橋大学兼松講堂、湯島聖堂なども手掛けた伊東忠太。

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以下は公式サイトより。

東京都慰霊堂は、大正12年(1923)9月1日に発生した、関東大震災による遭難者(約58,000人)の御遺骨を納めるための霊堂として、東京市内で最も被害の大きかった被服廠跡(現在東京都横網町公園)に昭和5年に建てられました。

慰霊堂の設計は、築地本願寺や湯島聖堂を手がけた伊東忠太氏(1867~1954)によるものです。

当初は「震災記念堂」と名付けられましたが、昭和20年3月10日の東京大空襲などによる犠牲者(約105,000人)の御遺骨も併せてこの霊堂に奉安し、昭和26年9月に名称を「東京都慰霊堂」と改め、現在約163,000体の御遺骨が安置されています。

毎年2回(春季-3月10日、秋季-9月1日)慰霊大法要が行われています。

 

高い天井の内部。お線香と蝋燭を献じることができる。両側面の壁には、関東大震災と東京大空襲の被害を伝える絵や写真が、大きなサイズで掲げられていた。

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震災後に中国から寄贈された「幽冥鐘」

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 以下説明板より。

幽冥鐘の由来

この梵鐘は、関東大震災により遭難した死者を追悼するため、中国仏教徒から寄贈されたものです。

震災の悲惨な凶報が伝わった中国では、杭州西湖の招賢寺及び上海麦根路の玉仏寺で、それぞれ念仏法要が営まれ、中国在留の同胞に対しても参拝を促しました。

また、各方面の回向が終わった後は、「幽冥鐘一隻を鋳造して、之れを日本の災区に送って長年に亘って撃撞し、此の鐘声の功徳に依って永らく幽都の苦を免れしめむ」と宣言しました。

その後、中国国内で鋳造し、杭州から上海、横浜経由で大正14(1925)年11月1日、記念建設地(横網町公園)に運ばれました。

この鐘を安置する鐘楼は、昭和5(1931)年8月31日に現在地に完成し、同年10月1日「梵鐘始撞式」を行いました。なお、これら一連の事業の遂行にあたっては、上海の王一亭氏の特段のご尽力がありました。東京都

 

慰霊堂の斜め向かいには、東京都復興記念館が建つ。

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設計者を検索したところ、1997年に日本建築学会が青島都知事に出した「東京都復興記念館の保存に関する要望書」があり、「おそらく伊東(忠太)の示唆や指導のもとで萩原孝一が図面をつくったと見るのが妥当と思われます」とあった。

https://www.aij.or.jp/scripts/request/document/970325.htm

 

スクラッチタイルの表面、6本の角側を正面にした角柱が特徴的。

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柱頭のガーゴイル。

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本館は、関東大震災の惨禍を永く後世に伝え、また官民協力して焦土と化した東京を復興させた当時の大事業を永久に記念するため、東京都慰霊堂の付帯施設として昭和6年に建てられました。

1階には、主として震災被害資料を陳列し、2階には中央を絵画室とし油絵等を陳列してあります。また被害地域等の復興大模型は、震災後各地で開催された震災の復興展覧会の際に作成、展示されたものです。

2階の周囲の回廊には、震災復興資料等が展示してあり、その他東京大空襲による戦災関係資料等を展示してあります。

また、記念館横の屋外にも、溶解した車両などの大型被害品が展示してあります。(後略)

入館無料。9時~17時。月曜休館。

以上は公式サイト復興記念館 | 東京都立横網町公園より。

 

内部撮影は不可。

震災、戦災関連品には言葉がないが、2階にある復興大模型(上記サイトに概観写真あり)が大迫力で、しばらく見入ってしまった。

昭和初期の東京を1/5000の模型で眺めることができる。ガラスの展示箱も年季が入っており、当時のもののような印象。

写真を撮れないのが非常に残念だった。

 

以下は説明板より。

大東京復興模型 1929年 269.5×259.7×16.5 復興記念館所蔵

概要

1929(昭和4)年、〈財〉東京市政調調査会が主催した「帝都復興展覧会」への同会の出品物で、制作は島津製作所。当初は「大東京都市計画模型」と称され、現在の23区に相当する、当時の東京広域の都市計画区域の範囲をカバーした不等辺六角形の模型で、縮尺1/5000。

詳細

旧東京市内(旧15区)の範囲には地形を表現し、さらに復興街路系統と主な建築、橋梁等の模型を配し、その外側の「大東京」計画範囲の旧郡部町村には、平面上に彩色で地域・建物などが表示されていた。また、震災復興で整備された上下水道系統や電気系統やガスタンク、市町村役場の位置、郊外道路、郊外鉄道(予定線を含む)を色別の豆電球等で表示するなどの「電気仕掛」「照明装置」を具えていたが、同展などの一連の展示の終了後、市内の模型部分を切り取り、この復興記念館に収められた。

市政会館(日比谷公会堂)や神宮外苑聖の絵画館、旧国技館、建設中の国会議事堂、東京駅、隅田川の主要橋梁など、市内の主要な建築・工作物については精巧に再現され、その他の大小のビル、復興小学校、社寺、街路沿いの看板建築の連続や町屋の群などは「型押し」のパターンで造られている。ただし、1930年(昭和5)当時の状態であるため、同じ復興建築でも、上野駅や銀座・服部時計店(和光)などはまだない。

一方、現在の中央―総武線の高架など一部鉄道はこの時点では未完であったが、模型では「完成」されている。

 

建物もそうだが微妙な高低差がリアルに表されていて見飽きない。次回は都内の地図を持ってきて、さらに詳しく見てみたい。

 

江戸東京博物館へ行かれる際には、こちらにも寄られることをお奨めします。

 

清澄通り側から見た復興記念館。

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上記の写真を撮った背面にある蕎麦屋さんで遅いお昼をとった。

店の前に豊洲方面行きのバス停があって便利だった。

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