墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

画像が出ない場合はPCで、クロームOSでお試しください。

石岡市ふるさと歴史館(旧石岡市民俗資料館)

前回のつづき、石岡小学校の敷地内にある「ふるさと歴史館」

Google mapではまだ「民俗資料館」のままだったが、この4/1に「ふるさと歴史館」となったばかり。

「ふるさと歴史館」(旧民俗資料館)がスタートしました | 石岡市公式ホームページ

 

建物は同じだが、展示物が民俗資料から歴史資料に替わっている。入館は無料。

f:id:massneko:20150429145701j:plain

 

1階は企画展「陣屋門」が開催中。事務室と共用なので広くはないスペースだが、屋根の鯱鉾(しゃちほこ)や柱材などを見ることができた。

f:id:massneko:20150429150033j:plain

 

2階は割と広いスペース。

舟塚山古墳や常陸国分寺・国分尼寺、茨城廃寺、鹿の子遺跡などの貴重な遺物やパネル展示を見ることができた。

f:id:massneko:20150429150510j:plain

 

こちらは舟塚山古墳群の円筒埴輪や土師器。

f:id:massneko:20150429150523j:plain

円筒埴輪は舟塚山8号墳のもの。以下が解説。

舟塚山8号墳

「平足塚」や「びったら塚」とも呼ばれている古墳で、現在は径5m程度ですが、全長90m、後円部径50mの前方後円墳だったとの伝承があります。

明治30年(1897)年に坪井正五郎氏が府中愛宕山古墳を発掘した際に合わせて発掘し、舟形埴輪が出土したと伝えられています。

8号墳出土と伝えられる埴輪は舟塚山古墳のものと似ていることから、舟塚山古墳と近い時期に造られたと考えられます。

 

舟塚山古墳群は主墳が大きいだけでなく、総数41基の大古墳群であることがよくわかった。

f:id:massneko:20150429150533j:plain

高浜神社裏の台地上にも、やはり古墳群があった。

 

こちらは常陸国分寺の250分の1の復元模型。その後の調査で回廊の幅が模型の倍になることがわかっている。

f:id:massneko:20150429150657j:plain

 

常陸風土記の丘に復元建物があった、鹿の子遺跡の発掘遺構の模型。建物が整然と、大規模に広がっていたことがわかる。

f:id:massneko:20150429150913j:plain

 

 「古墳から寺院へー茨城廃寺跡ー」の展示

f:id:massneko:20150429150652j:plain

以下は展示パネルより(部分)

聖徳太子から推古天皇の摂政となった6世紀末頃、前方後円墳の造営が終わります。円墳や方墳の造営は続く「古墳時代」ですが、日本の古墳を代表する前方後円墳の造営が終わることから、日本歴史の時代区分としては、6世紀末から710年の平城遷都まで「飛鳥時代」としてとらえられています。

飛鳥時代は、天皇中心の中央集権国家体制が進む時代であり、また本格的な寺院が建設される仏教文化の幕開けの時代でした。

常陸国でも、国ー郡(評)ー里(郷)という行政組織が設けられ、郡ごとには役所「郡衙(郡家)」が造営されました。

石岡市貝地に存在する「茨城廃寺跡」は、昭和54年~56年の調査(第1次~第3次)によって、法隆寺式伽藍配置をもつ、7世紀後半に創建された初期寺院であることがわかりました。また、「茨木寺」「茨寺」という墨書土器から、茨城郡の郡寺と考えられています。

茨城廃寺跡では、昭和23年度から遺跡の範囲や内容を確認するための発掘調査がはじまっており、寺域や区画施設の様子も少しずつわかってきています。

出土した瓦から、7世紀第4四半期頃から建設がはじまり、8世紀中頃までに主要な建物が完成、10世紀頃まで続いたことがわかるそうだ。

 

下記の左は購入した小冊子(600円)、右は無料の冊子だがカラー写真はこちらの方が豊富。

どちらもわかりやすく、よく出来ていている。

f:id:massneko:20150505103723j:plain

帰宅してから目を通したら、左の「石岡の歴史と文化」では丸山古墳、佐自塚古墳、長堀2号墳の記事が、右の「やさとの茅葺き民家」では魅力的な茅葺きの詳細説明があった。どちらも石岡市の旧八郷町にあるので、次の機会では八郷を訪ねてみたい。

つづく。