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墳丘からの眺め

舌状台地の先端で、祖先の人々に思いを馳せる・・・

陣屋門 常陸国府跡 茨城県石岡市

茨城県の古墳、寺社、遺跡、街歩き

前回のつづき。

常陸国分尼寺跡を見たあとに、常陸国府跡(石岡小学校)へ向かった。

小学校に隣接して石岡市民会館があり、駐車場の脇に「陣屋門」が残っていた。最近修復されたばかり。

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新品の説明板。

f:id:massneko:20150429145307j:plain県指定建造物 石岡の陣屋門

所在地 石岡市総社1丁目420番  指定 昭和43年9月26日

この門は、江戸中期から幕末まで、およそ170年間にわたってこの地を治めた府中(現在の石岡市の一部)松平家の陣屋の表門である。

府中松平家は、水戸徳川家の御連枝(分家)として定府(江戸定住)の大名だったため、領地には陣屋を置き、郡奉行以下総勢20余名に民政を担わせた。やがて府中の町は、穀物・肥料の集散地、また、醸造が盛んな町として発展し、幕末期には常陸南部で最大規模の都市となった。

現存する門は1828年(文政11)の建築で、鏡柱と控柱との間に切妻屋根をのせる「高麗門」の形式である。

元来は土橋通り正面に建ち、明治維新後は石岡小学校の校門として用いられていたが、交通事情等によって昭和44年に石岡小学校敷地内に移築され、さらに平成26年、市民の希望により現在地に移された。

平成27年3月 石岡市教育委員会

 

石岡市民俗資料館のある小学校校門は閉まっていた。

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残念…と思ったら、市民会館左側の門は全開だった。

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入っていくとウォーキングコースの説明板がある。

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国指定史跡 常陸国府跡

所在地 石岡市総社1丁目2番

常陸国衙の成立は、8世紀初頭前後である。国府の下に郡衙が置かれ、多珂・久慈・那賀・新治・白壁・筑波・河内・信太・茨城・行方・鹿島の11郡を統括していた。国衙には、国内の政務に携わる行政官の勤務する役所や倉庫群などさまざまな建物があった。昭和48年、石岡小学校の校舎改築に伴い発掘調査が実施され、多くの柱穴が発見された。その後、平成10年から11年にかけてのプール建設に伴う発掘調査では、掘立柱建物跡、遺跡などが発見された。この調査は引き続き平成13年度から6次にわたり行いその結果、この石岡小学校の校庭に国庁が存在していたことが判明した。

国庁は南向きに建てられており、東西に並行して脇殿がある。正殿の南に前殿を配し、四方を築地塀で囲んでいる。また一時期、東西に楼閣が建てられた時代もあったものと思われる。全国の例と同様に、それらの建物配置は左右対称である。さらに時代が下ると掘立建物から礎石建物に変わっていく。

大掾氏とのかかわり

大掾氏(だいじょうし)は代々「常陸大掾」という役職を世襲し、それがやがて家名となったものであるが、大掾という役職は在庁官人のトップクラスであり、時代の変遷はあるものの実質的に国衙機能を掌握していた。

◇エピソード~大掾氏と府中城

府中城は、戦乱の続く南北朝時代初期の正平年間(1346~1369)に第15代平詮国(あきくに)によって築城されたといわれている。規模は東西約5町(約500m)南北約4町という広大なものであった。成り立ちについては、石岡城(外堀:市内田島地区)から本拠を府中城に移したという説があるが、府中城と石岡城は、二城一体の城塞として「内城」と「外城」という関係で機能していたのではないかとも考えられている。

平成21年2月 石岡市教育委員会

 

小学校全体が遺跡の上に広がっている。

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府中城については土塁も残っていた。

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市指定史跡 府中城の土塁 

所在地 石岡市総社1丁目2番

指定日 昭和53年8月23日

府中城は、正平年間、大掾詮国により築造されたといわれる。天正18年(1590)12月大掾清幹が佐竹義宣に攻められて落城した。

落城後は、義宣の叔父佐竹義尚が城主となり、慶長7年(1602)佐竹氏の秋田国替後は、六郷政乗がこれを領した。その後元禄13年(1700)松平頼隆が封じられ、この地に陣屋を置いた。

城の規模は東西約500m、南北約400m、本丸・二の丸・三の丸のほか、箱の内出丸・磯部出丸・宮部出丸を備え、また、堀・土塁をめぐらした堅固な城郭であった。現在では、土塁や堀の一部が残されており、当時をしのぶことができる。

 

 校庭の片隅に残る土塁の前には、舟塚山古墳群の箱式石棺もあった!

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こちらの説明板は読みとるのに苦労した。

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箱式石棺(舟塚山古墳群第9号墳出土)

この石棺は石岡市北根本681番地より、昭和51年の発掘調査によって発見されたものである。古墳は、今から約1300年前のものと推定され一辺約13mの方形をあらわした古墳で、周囲に幅1.5m、深さ60cmの溝をめぐらしている。

石棺は、扁平な板石を組み合わせた箱式石棺で、蓋石5枚、側石8枚、妻石2枚の計15枚でつくられており、床石には15cmの小石を敷きならべている。

石棺内部には、人骨2体が埋葬されており、初め1体を埋葬し、後にもう1体を埋葬するという追葬の形式がとられていることが確認された。

関東における箱式石棺の分布をみると、茨城県に最も多く、なかでも霞ヶ浦周辺に濃密な分布をしめている。年代的には古墳時代後期頃から出現するのであるが、本古墳のように飛鳥、奈良時代にはいってつくられたものの方が数多くみられる。

石岡市教育委員会

 

府中城の説明板の後ろにも石室の石らしきものが無造作に置かれていた。

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このあと、同じ敷地にある「ふるさと歴史館」を見学した。 

つづく。